ネタバレ注意。具体的には書かないですが映画「沈黙ーサイレンス」のラストを話題にして下記の文章を書いています。  

小説「沈黙」が出版されたときに、当時のカトリック教会の長崎教区では、読むべきではないとされたことが知られている。

この事が少し気になっている。

「沈黙」批判の聖職者のなかには講談社のバルバロ訳聖書の訳者であるバルバロ神父や、様々な著作で知られるデルコル神父がいるらしい。

もし批判のポイントが、小説「沈黙」のクライマックスである主人公ロドリゴの絵踏みの箇所に対しての批判だったとするならば、正直、私にはかなり辛い。

「自分の身代わりで苦しむ者を救うために行った究極の行為」であり「自己判断を奪われた状態での強要」であることを想えば、神様がお許しにはならないとはどうしても思えないのである。


ただ、遠藤さんの、小説「沈黙」については、全体を見通して批判の余地がないかといえば、そうでもないような気がし始めている。

きっかけは、拙ブログに「遠藤さんは、神学的問いかけの連続で、本人も正解を持っていない」「長崎キリシタンに対し、どこか冷ややかなものが感じられる」というコメントをいただいたことで、そういう視点で、小説「沈黙」を読み返せば、やはり教会としては見過ごせない箇所も無いことは無いような気もするのである。

例えば、モキチとイチゾウの殉教場面を虚無感が漂うような虚しい描写で描いているところや、フェレイラが「日本は沼地」と語る場面あたりはどうだろう。

特に「日本は沼地」論に対しては、日本への宣教のために殉教した黎明期の宣教師や、明治以後の再宣教においても日本のために自分の一生を投じた宣教師が、実際に多く存在することを思えば、そういう犠牲や献身を受けておきながら、「日本は沼地」と高みで達観するような言葉を語られても、教会として受容はできないだろうし、宣教に当たっては有害という声が出ても不思議ではない。

この「日本は沼地」論については、 教会として見過ごすことのできない考え方にはなるのは当然のような気もする。

小説「沈黙」には、そういう側面は確かにある。


そういうことをふまえて、スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンス」を再度考えてみたい。

スコセッシ監督の沈黙は、かなり原作に忠実である事は間違いない。
ただし小説と異なるところが無いわけではない。

言葉による文章表現と、映像という表現との違いによって、受ける印象の差は確かにあった。
一番わかり易かったのは、上述の「モキチとイチゾウの殉教場面」だろう。
小説では虚無感の漂うペシミスティックな描き方をされた場面が、映画となった映像では、まさに「証する人」を感じ「キリストの受難」のかたどりとなっているようにさえ思えた。

モキチは、原作以上に登場する場面が多く、 「隠れて祈るのです」「(ちいさな手彫りの十字架を手に持ち)これだけ(しか無いの)です。」という、話したときは気づかない特になんていうほどのことはない セリフを話すが、 映画を見終わったときに ストーリーの上で極めて重要なセリフだったことが ラストでわかる。

遠藤さんが切支丹屋敷役人日記で第三者目線でぼやかした内容に対し、
スコセッシ監督は、 ロドリゴとモキチの関係における自分の解釈を加えている。

いわば、小説「沈黙」世界におけるフェレイラとロドリゴの存在のあり方に対し、その間に一線を引いた。

遠藤さんが、
神学的に問いかけつづけ、本人も答えを出すことに迷いが少し残った曖昧さで閉じたラストに対し、スコセッシ監督は「遠藤さん、このラストでよかったよね」と語りかけるような感じで 一歩原作に踏み込んだ。

私には、スコセッシ監督が、もしかしたら
(文学的にはともかくカトリック信仰的には) 未完 だったかもしれない小説「沈黙」を、映画において完結させたようにすら感じるラストだった。



最後に蛇足だが・・・

「沈黙」の話においては、どうしても「踏み絵」に焦点があたり、そのことについて教会がどのような答えを示しているかを気にする信徒は多いと思う。

コメントで教えてもらったことだが、かくれキリシタンだった浦上の信徒が、信徒発見を経て明治期の再宣教期に、カトリック教会に復帰した際に、十字架山という「絵踏み」の償いをするための祈りの場所をつくった。
その十字架山が、教皇ピオ十二世によって、公式巡礼地に定められた事実がある。


「強要された絵踏み」についての、教会の考え方は、このことにも示されているように感じている。