【今回は特にネタバレ注意。ラストも含めてストーリーの内容に触れています。】  


映画「沈黙ーサイレンス」を観た。

非常に厳しい映画である。

キリシタン弾圧の拷問、処刑の場面が、映像化されると大変きつい描写になるということを、頭ではわかっていたつもりだったが、実際に目で見るのとでは違いが大きかった。

前回「「沈黙」は、遠藤さんの小説世界でありフィクションである」とは言ったものの、それは人物描写としての話であって、時代背景としての弾圧迫害については記録も多く、映画「沈黙」の迫害の描写は事実に近いと思う。

誰が観ても酷い描写だが、キリスト教の信者にとしては客観視することが難しく、私にはとても辛かった。

「覚悟して観るように」というシスターのアドバイスの紹介が twitter でツイートされていたが、的確なアドバイスだと思う。
かなり激しく厳しい描写であることはお伝えしておきたい。


映画としては、日本を舞台にした外国映画だが、民俗的な時代考証が非常に緻密で、映像や音声の効果もとても繊細だったので日本人が観ても違和感がない。

ストーリーそのものや、描かれる世界は、完璧と言っていい程に、遠藤さんの原作に限りなく近かったように思う。

酷い描写は辛かったけれども、私はこの、映像化された「沈黙」の世界に接して新たにこの作品を理解できたことが多く、観たことは本当に良かった。

小説を読んだだけでは理解しきれなかった自分の想像力の少なさもわかり、私は自分の見方がやはり一面的で、頑なだったと気づかされた。

特に、この作品にキチジローが必要だった本当の意味がわかったような気がしている。

遠藤さんの小説の人物像では、キチジローは皆から軽蔑される卑怯な男として描かれるがキチジローの何回もの「転び」が、その後に同じ数だけの良心の呵責と後悔があったということに、 映像化された世界のキチジローの叫び声を聞いてより生々しく伝わったきたのである。

キチジローは、確かに殉教者になる勇気を持てない弱い男(現代ならばおそらく私と同じ普通の男)だが、罪の自覚に対しては極めて素直で、いくら踏み絵を踏んでも
、絶望せずにあがく。救いを求める。

1月2日に放映されたNHKーBSスペシャルの中で「転ぶ」というのは、文字どうりの「倒れる」という意味で良いというアメリカ人研究者の解釈があったが、キチジローはまさにその通りだった。

また踏み絵についても、その行為をもって「棄教」と断じてしまうことはたやすいが、自分が踏み絵を踏まなければ、自分の代わりに他の信徒が拷問され続けるというロドリゴと同じ状況では、もう選択はありえず、踏み絵そのものが精神的拷問、処刑だった。

棄教というのは、強制された踏み絵ではなく、自ら神の存在に耳と心を閉ざし背を向けたときが真の棄教なのだろう。

いろいろな解説を読むなかで「最終的にロドリゴにとって、キチジローが師となった。」という解説があったが、キチジローの存在の有無はロドリゴとフェレイラの残りの人生の違いとなる。

この解説を読んで、キチジローが、遠藤さんのこの後の小説の「侍」に登場する中間の与蔵と二重写しになって、遠藤さんが描く「救い」とは、常に「寄り添う存在」がテーマだったということを思い出した。


ラストの切支丹屋敷役人日記のエピローグの部分は、ほんの少しだけ原作から踏み込んでいる。
というか、ここは小説では読者に想像と解釈を委ねるところなので、ここはスコセッシ監督が解釈した内容になる。

かつての篠田正浩監督による邦画版「沈黙」の方は、原作者の遠藤さんが納得がいかず、ラストシーンの削除を求めたらしい。
篠田監督は、その要請に応えなかったので、この映画は遠藤周作の原作「沈黙」とは、メッセージが別物になってしまっていると言っていい。篠田監督が勝手な解釈をした「沈黙」ということになる。

スコセッシ監督のラストシーンのほうは、遠藤さんが存命ならどう思うだろうか?

篠田監督とは異なりスコセッシ監督の表現は、控えめだけれどもトモギ村のかくれキリシタンに対するリスペクトが最大限に表現されていたように思った。

おそらく遠藤さんも、このラストには共感し納得してくれるだろう。

中盤の、(その時は重要さに気づかない)ほんのちょっとの挿入場面が最後に非常に重要な意味をもったことになるのだが、この挿入は遠藤さんの原作の流れを全く壊さず、最後の切支丹屋敷役人日記のエピローグの謎解きにつながった。

この映画のラストはとても良かったと思う。

ラストで、ロドリゴの「沈黙の声」に対する想いが示されたことに賛否はあるのかもしれないが、この作品の結論が「(神の)沈黙」で終わらないためには必要だった。

スコセッシ監督に拍手を贈るとともに感謝したい。

きっと遠藤さんも理解して喜んでくれるように思う。