【ネタバレ注意。ストーリーの内容に触れているところがあります】  

映画「沈黙サイレンス」がついに公開された。

気になってしかたがないので、いろいろとネットを検索しているからかもしれないが、世間一般でも関心が高まっているようにも感じる。 

22日の首相動静によると、安倍首相もご覧になったようだ。

キリスト教の信者のみならず、多くの人に見て欲しいと思うが、 この作品を観るうえでの大事なポイントがある。

この作品は17世紀のキリシタン弾圧下の日本を舞台にはしているが、 いろいろな意味で、あくまでもフィクションであるという点だ。

もちろんキリシタン弾圧は歴然とした事実で、遠藤さんの史実としての時代考証の信憑について言いたいわけではない。 

ただ物語を設計するうえでは、歴史上の出来事を踏まえ、記録に残る人物像を膨らますという作業がある。
この小説においては、物語の中で遠藤さんが小説世界で必要とする人物像があったように思え、そのために、その小説世界の人物像が必ずしも実在の人物と一致するとは限らないという点だ。

つまりフェレイラや井上筑後守という人物が、どういう人だったかということは、この小説ではあまり意味をなさず、遠藤さんの物語「沈黙」におけるフェレイラ、井上筑後守 として観る必要がある。 

キリシタン迫害も主人公ロドリゴのモデルとされる宣教師キアラの存在も事実だけれども、歴史ドラマとして観るのではなく、遠藤周作さんの心の内側の宗教的葛藤を表現した宗教的な物語として観ないと、この作品が問いかけるメッセージを見誤ると思う。

「沈黙」の、17世紀のヨーロッパ社会の人間が全くの異文化の世界に飛び込むという設定は、読者もまた江戸時代の禁教令下の日本に連れて行かれるようだが、あくまでもここは、遠藤さんの物語「沈黙」の世界だ。

ロドリゴの旅は、日本で宣教に当たっていたフェレイラを探すことから始まるが、この目的で始まった過酷な旅の目的地は形而上的にはまぎれもなく地獄で、メタファーとしてのユダもサタンも登場しているのではなかろうか?
「形だけ踏めばいいではないか」という通詞の囁きは、メフィストフェレスの囁きのようだ。

その地獄のなかでロドリゴが最終的に出会う踏み絵のキリストが、真のキリストなのかどうかということが、神学的に論点になるところなのかもしれないが、遠藤さんのこの物語においては紛れもなくキリストとして描かれる。

作者の遠藤さんの分身とも言えるロドリゴの旅路はキリストと出会う旅で、この小説世界のなかでは読者もロドリゴと同化しているからだと思うが、遠藤さんのこの物語における「苦しみに寄り添う神」の登場に、頭で考える以前に、心が反応し魂が揺さぶられる。


しかし、今回の映画化のなかで、少し気になり始めていることがある。 

まだ予告編映像を見ただけなのだけれども、小説の中では「神の沈黙」を感じさせる無常感と虚しさの漂うモキチとイチゾウの殉教の場面が、映画となった映像では「キリストの受難」のかたどりとなっているように感じるということだ。

ロドリゴは、踏み絵のときだけではなく、モキチとイチゾウの殉教を目撃することで、受難を受けるキリストとも出会っているのかもしれないのである。

小説とは違う映像という生の表現手段によって予期せずに作者である遠藤さんの意図を離れているのかもしれないが、これは「沈黙」という物語世界のなかで、スコセッシ監督の手によって新しい本来の物語が誕生しているという見方もできるかもしれない。 

また小説では、踏み絵を踏んだ後のロドリゴについては、切支丹屋敷役人日記として第三者視点で描写されるが、坦々とした描写の中で「寄り添う神」がチラッと姿を示す。

遠藤さんは「思想的漂泊をし続けていた」とコメントで教えてもらったことを思い出す。
その、キリストを探しキリストを求めた漂泊の生涯を想う。


正直、観に行くのが辛いし、怖い。

しかし観に行かねばならないと思っている。