1月2日にNHKのBS1で、今月の21日に封切りされる映画「沈黙ーサイレンス」についてのドキュメンタリー番組があった。 

お正月の2日に2時間に近い番組を放映する、NHKの興味の持ちように少し驚く。

映画「沈黙」は、日本人作家の日本を舞台にした小説をアメリカ人が制作する映画で、日本人俳優も多数出演するということもあって、日本で関心が高まりやすい設定にはなっている。

ただしキリスト教徒ではないほとんどの日本人にとっては関心の持ちにくい題材だし、殉教、棄教という宗教的テーマは、信仰心がなければ理解してもらえるかは、正直、疑問だ。


また、NHKのドキュメンタリーを観る限りでは、キリスト教徒であるアメリカ人の研究者であっても、小説「沈黙」における日本のキリシタン迫害を「権力者による宗教弾圧」というシンプルな敵味方の構図で理解してしまっているような感じがした。

「転ぶ」という言葉を「棄教」ではなく、文字通り「倒れる」「つまづく」という理解でいいとしてしまっていた大学での講義の場面もあった。

単純化した構図にしてしまうのはアメリカ人の特性だろうか?

やはり文化の違いによる民族気質の違いを感じてしまう。


小説をよく読めば、権力の側にいる井上筑後守、通詞も、元はキリシタンと思わせる描写があり、ほとんどの登場人物が一度は福音を受け入れたキリシタンという人物設定になっている。

現在の日本人キリスト教徒が、ほとんど逃げ場のない弾圧のなかで自分がどうなっているのかを仮定として想像し自己投影してしまう複雑さが「沈黙」にはあるはずだ。


「沈黙」理解のためには、当時のキリシタンに対する深い理解が必要な感じがする。



私のほうも、封切りの前は好奇心があったのに、なぜか戸惑いが湧いてきて、観たい気持ちと観たくない気持ちが錯綜している。
私の場合は、映像化された遠藤さんの小説「沈黙」の世界を、正視するのが怖いのかもしれない。


とにかく

キリスト教徒ではない日本人にはわかりにくく、

キリスト教徒であっても外国人の場合は深いキリシタン理解が必要で、

日本人キリスト教徒であっても極めてナーバスな内容で緊張を強いられる。


「いったい、どういう人に向けた映画なんだろう」と思ってしまうマーケティング視点に乏しい「作りたいから作った」映画で、おそらく興行的にはあまりヒットはしないだろう。


実は、篠田正浩監督の1971年の邦画版「沈黙 SILENCE」も私は観ていない。

この邦画版は、チラッと聞いた内容では原作からかなり離れているところがあるようだったので、一瞬で観るのがイヤになったことを覚えている。


やはり殉教、棄教という題材は、やはりとても難しく重い。



ただし・・・


今回のアメリカ映画版は、一度は神学校に入ったこともあるというスコセッシ監督が、映画化するために28年間もこの小説と向かい合ってきた時間の重さがある。

スコセッシ監督とそのスタッフの、小説に対する理解の深さや想いの強さは、ドキュメンタリー番組でのインタビューと、挿入される予告編画像で充分に伝わってくるものがあり、やはり心が動かされた。


興味深いのは、小説では無常感が漂う描写であったモキチとイチゾウの殉教の場面が、映像によるリアルな表現になったために、苦しみを肉眼で直視することになったということだ。

スコセッシ監督もインタビューで「撮影現場のその場にいた全員が共に苦しみ、神の存在を意識した。」語っている。


もしかしたら小説の世界で遠藤さんが設計した意図が、映像化によって自然に離れ始め、遠藤さんの意図とは異なったところに、感動の光が当たっているかもしれない。


天国の遠藤さんも、良い意味で小説と映画という手法の違いによる結果に驚いているかもしれず、感想を聞いてみたい映画の仕上がりになっているような予感はする。


躊躇しながらも、やはり私も観に行くのだろう。