NHK大河ドラマで戦国時代が舞台になる時は、キリシタンの武将が登場することがあるが、今年の「真田丸」では明石全登という武将が登場した。
高山右近、蒲生氏郷、黒田如水、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠のあたりまでは名前がでてもそこから先はクリスチャンでも知らなかったりするのだが、それ程に有名ではなくても、やはり信仰を持ったがゆえに大きな歴史のうねりに巻き込まれた武将がまだまだ存在し、古文書に名を残しているという事実に、また好奇心が疼く。

関ヶ原合戦当時の総人口は1200万人とも2000万人とも言われているようだが、最盛期(1610年頃)は60万人まで増えたというキリシタンの人口を当てはめれば、人口構成比としては現在の3倍以上の比率になる。

明石全登が登場している大阪夏の陣は、ちょうど高山右近が日本から追放されマニラで亡くなった年(1615年2月)の夏でもあって、キリシタン禁教令の出された1612年とも合わせて見れば、「豊臣氏の滅亡」という歴史上のポイントは、キリシタン史的にも歴史の転換点だったということになる。
明石全登も、大阪城で徳川の大軍を目の前にして後々のキリシタンの行方をも想っただろう。

来年の2月7日に日本のカトリック教会にとって念願の高山右近の列福式があるが、右近がマニラに流された時の日本の有り様にも想像力を働かせ、感覚的に少しでも実感の伴うものにしたいと思ったりする。


くしくもこの高山右近列福式と重なるイベントとして、もう一つキリスト教界隈で大きな注目を集める話題は、遠藤周作さんの代表作で問題小説でもある「沈黙」が映画化されて、年明けの2017年1月21日から公開されるというニュースだ。

高山右近の国外追放以降のキリシタンの歴史というのは潜伏キリシタンの歴史になるが、「沈黙」の舞台は、世界史でも類を見ない熾烈な迫害が記録として残るそのキリシタン禁教令下の日本になる。

ハリウッドのマーティン・スコセッシ監督によって映画化されていて、近いうちに公開されるという噂は、今年の年初には既に伝わっていた。
年内の封切り公開とされていたので少し遅れたが、ホームページでは既に予告編が公開されている。 

一般的にもシリアスで重い映画には違い無いが、カトリック信者、キリスト者にとっては当事者意識を持たざるを得ない為にかなりきつい映画で、予告編でちらっと見た描写だけでも精神的に充分に滅入るものがあった。 
全編を映画で見れば、小説で想像するものとは比較にならない映像の生々しさによって大きく心が揺さぶられるのは間違いない。

そもそもハリウッド映画にむいているような小説では無い。
小説では主観描写と客観描写を混ぜることで「直接語らずに間接的にわかる」ところがあるが、客観描写であるオランダ商館員日記や切支丹屋敷役人日記の部分を、映画でどのように表現するかは難しいとも思う。
同じ遠藤さんの純文学作品でも「侍」のほうが舞台となる場所が多くて多様だから映像的に絵になり易く、こちらの方がおそらく映画化に向いていたとも私は思う。
それでも「沈黙」が映画化されたのはスコセッシ監督の20年越しの想いの強さによってらしい。

生前、遠藤さんもスコセッシ監督の代表作である「タクシードライバー」について、ご子息に「あの映画は観た方がいい」と語っていたらしいから通じ合う何かがあるのかもしれず、スコセッシ監督による映画化は天国で喜んでいるかもしれない。


かつて日本のカトリック教会では長崎教区などで、小説「沈黙」は、信仰の為には読まない方がいいという評価がされたらしい。
現代の日本のカトリック教会がこの映画版「沈黙」に、どのような反応をするかはわからない。
ただし聖職者も含めた感想は多く出るような気はするし、聖職者ほど積極的に語ってほしい。

この映画をどのように受け止めるかによって、信仰にどのように活きるのか、活かされるのかが大きく変わるのだろう。
受け止め方によっては、逆効果ともなり得る。

とりあえず見に行ってみようというのではなく、この映画の場合は小説の方から注意深く細部も読み、どのような受け止め方をするかイメージをしながら見に行った方がいいかもしれない。

観に行くタイミングを図りかねているが、それでも観に行くことになるのは十中八九、間違いはなく、四旬節を迎えた中で、時に直視できなくなるような心の痛みを抱えながら観るのかもしれない。


待降節の最中にあり、希望を持って主の降誕を迎える時なのに、なんともタイミングを外した内容になってしまった・・・

それ程にこの映画は気になって仕方がない・・・