中川神父の黙想会の日に、帰路でまた何冊か本を購入してしまった。

書棚の空きが無いし、未読の本が溜まってしまっているので購入は控えていたのだけれども、 河原町教会は、敷地の横にキリスト教専門書店のサンパウロがある。
講話を聞いていろいろ関心が高まっている心理状態では、立ち寄れば買わないでいることのほうが難しかった。
 
購入した本の一冊は「聖人たちの祈り」という薄く小さい300円の中綴じの冊子で、46人の聖人の祈りが載っている祈祷書のような本である。 

「お祈り」が載っているだけで出典の記載や背景の解説が無いのだが、「聖人たちがどのように祈ってきたのか」ということに関心が向いたし、値段がお手頃なのが良かった。


おそらく日記か何かで残された文章から、引用されたものもあるのではないだろうか?
ありのままに綴られた文章で、創られた祈りという感じがしない。

心のままの心情吐露のような文章で、どちらかといえば詩集のようでもある。

特にアヴィラの聖テレジアと聖トマス・アクィナスが印象に残った。

 アヴィラの聖テレジアの祈りは以下の内容になる。

(以下引用)

私の神よ、今、このときまったく自由に、何の留保もなく私の意志をあなたにお献げいたします。

主よ、残念なことに私の意志はいつもみ旨にかなうとは限らないのです。

私が真理を愛するようあなたはお望みです。それなのに、しばしば虚偽を愛してしまうのです。

私が永遠を愛するようにあなたはお望みです。それなのに過ぎ去るもので満足してしまうのです。

私が偉大なものに憧れるようにあなたはお望みです。それなのに取るに足らないものに執着してしまうのです。

主よ、私が心苦しく思うのは、あなたがすべてを超えて愛しているか否かを確実に知るすべがないことです。

私をあらゆる悪より常にお救いください。
み旨が私の内で行われますように。
主よ、あなただけが私の全てであってください。

(引用終わり)

アヴィラの聖テレジアのような、大聖人であっても罪の自覚におののき悩まされている心模様に驚く。

アヴィラの聖テレジアだけではない。
「神学大全」著者の聖トマス・アクィナスも同様に「私を見捨てないでください」と心のままに祈っているのである。


河原町のサンパウロでいっしょに買った「存在の根を探して」という中川神父の本も同時に読み進めているのだが、 この人間の罪の自覚については、創世記のアダムとイブの失楽園の話を題材に説明している。

中川神父は、失楽園の話を「恐らく人間の内面の最も深みにおいて密やかに繰り広げられる出来事で、人間への根深い誘惑と、それによって人間が本来のあり方からずれていく様子が描かれています」とし、「蛇」という「誘惑者」の存在に対して「生きたペルソナ的な力を持った存在であることを教会は経験してきた。」と述べていた。

この「教会は経験してきた。」という箇所は、まさにアヴィラの聖テレジアや聖トマス・アクィナスが祈りで表現せずにはおられなかったという事を指すようで、ピッタリと当てはまるような感じがする。

の恐ろしさは、実は外面的な怖さを持つものだけではなく、囁き声で惑わす「誘惑者」でもあって、退けるためには心のままに祈ることが必要だという事を、やはり聖人から学べるような感じがした。