先週の土曜日に京都カテドラルで待降節黙想会があった。

いろいろな用事が溜まっていてどうしようか迷っていたが、やっぱり行くことにしたのは、黙想会の指導司祭が、以前から評判を聞いていた カルメル会の中川博道神父だったことが理由として大きい。

こういう事もささやかな決断なのだけれども、結果としてやはりアクティブな方を選択して良かった。

「この時が来るのを待ってた!」と思う程に、私にとっては期待をはるかに超えた黙想会になったような気がする。


中川師は、第一講話の冒頭、NHKの「ためしてガッテン」などの引用もしながら、現代人のストレスに対処するためのメンタルヘルスの視点から「黙想」の科学的な効用を説明をされた。

短時間であっても静かに自分を心を見つめる時間を持つ事で、心の健康はもとより生産性も向上するという。
繁忙とは、実態だけでなく「繁忙感」による「心の気ぜわしさ」でもあって、多かれ少なかれ、慌ただしさを抱えながらも、黙想会に参加してきた人たちの、気持ちを切り替えるところからスタートさせるというところが上手い。

もちろんこのわかり易い話は イントロで、しだいに心の階層の深くに話は進んでいき、グイグイ話に引き込まれる。

話は、硬軟織り交ぜながら内容が多岐にわたり、しかも一つ一つの内容が精緻に関連しているところがあってポイントをまとめるのが難しいが、どういうことを話されたか断片的に列記すると、

祈りは注意によって成り立つ。どんな注意をしているかということが、どんな祈りをしているかということを大きく左右する。

「キリストに会いたい」という教会の門の前に立つ人に対し、私達はどのように会わせるのか?
そもそも私達自身がキリストに出会えているのか?

主キリストは、受難の始まり(捕縛のとき)と復活の時に、「誰を探しているのか」と尋ねられている。主が言われた言葉は「最終的に、私達は誰を探しているのか?」という私達に向けられた言葉である。

というようなことを話されるのである。

中川神父は、表情が柔和でしかも大変優しい綺麗な声の温厚な紳士なのだけれども、問いかける言葉は鋭い。

しかしその問いかけによって私達を突き離すのではなく、

アビラの聖テレジア、十字架の聖ヨハネ、などの聖人たちは、主キリストと出会うためにどのようにしてきたか?

という話の展開が次にある。

「問いかけ」「ヒントを示し」「考えさせる」という構成になっている。

時に離れたりしたこともあった私と教会との関係は、私の人生の歩みと同じ長さになるわけだけれども、出会ってきた神父は、教区司祭や活動修道会の司祭がほとんどで、観想修道会との縁は少なかった。
というか、やはり観想修道会は少ないので、求めなければ出会え無いのかもしれない。

中川師の話をどれだけ私が理解できたかは心許ないけれども、もしかしたら、私にとってこれほど内容が濃い講話はいままで経験してこなかったかもしれず、これは大変な出来事だったのかもしれないとじわじわと想い初めた。

おそらく今回の黙想会だけでは済まず、以後、宇治カルメルの黙想会にも行くかもしれない。
そういう変化によって、大袈裟かもしれないが人生も変わるだろう。

良き師との出会いというのは、あらためてとても大きな御恵みだと思い、神様に感謝した。