11月5日の荘厳司教ミサの閉祭のときに歌われた聖歌のうちの一曲に、カトリック聖歌12番「われ神をほめ(テ・デウム)」があったのだが、この曲は、私の子供の頃にとてもよく歌われていた聖歌だったので大変懐かしかった。

われ 神をほめ
主とぞ 称えます
永遠(とわ)のみ父を
あめつちと共に
みつかいうとう
ケルビムのうた
セラフィムの歌
絶ゆるひまなし

この「われ神をほめ(テ・デウム)」という聖歌の原曲の「テ・デウム」はグレゴリオ聖歌で「二十六聖人が殉教するときに歌った」という話もある。

グレゴリオ聖歌の「テ・デウム」は、ラテン語で旋律も違うだろうが、意味内容が同じだとすると、殉教によってこの曲の重要性が変わってくる。

少し気になり始めたので、聖歌に詳しい友人に成り立ちを教えてもらった。


グレゴリオ聖歌の「テ・デウム」は4世紀からあるとされているらしい。
一方、カトリック聖歌12番(と同じメロディ)の「われ神をほめ(テ・デウム)」のほうは、1771年にドイツ・シレジア地方(現・ポーランド領)のIgnaz Franz というカトリック司祭が、ラテン語の「テ・デウム」を ドイツ語の歌詞でパラフレーズ(やさしく言い換え)して作った聖歌らしい。
ドイツ語圏では最もポピュラーで普及している聖歌の一つで、ドイツの教会では復活祭後とか、閉祭の歌としてよく歌われるようだ。
YOUTUBEではベネディクト16世教皇様の就任直後、母国であるドイツでの大々的な野外ミサの閉祭で大群衆がこれを歌っている動画がある。
アメリカにはドイツ系移民によってもたらされ、そこで英語に翻訳されて、それから多くの国々に広まっている。


再宣教黎明期の明治、大正期には、
当時世界でよく歌われていた聖歌を日本語訳した聖歌集が複数存在していたようで、その聖歌集を再編纂し統一聖歌集として出版された歌集が「カトリック聖歌集」の前の「公教聖歌集」である。
サレジオ会のヴィンセンティオ・チマッティ神父も編纂に関わっていたらしい。
チマッティ師といえば、当時、宣教に於いて音楽を大変重視された方として知られる。

カトリック聖歌集と共にチマッティ師の写真を見れば、その御顔が私の少年の頃に世話になったイタリア人の老神父の顔となんだか被ってきてとても懐かしい感じがする。

「われ神をほめ(テ・デウム)」は、世界的広がりというだけでなく時系列的にも多くの人から愛されていて、普遍的な存在感がある曲と言っていい。 
おそらく外国に行ってミサに与ったら、日本国内よりも出合うチャンスがあるかもしれない。

カトリック聖歌集の他の聖歌も、例えばカトリック聖歌322番「あめのきさき」などは、ルルド巡礼で様々な国の言語で歌われているのを耳にするという。
言葉は違ってもメロディを共有することで、霊的な絆というか一体感が湧くのは目に見えるようで、そういう経験を一度是非してみたい。

このように私にとっては極めて愛着の強い 「カトリック聖歌集」だが、現在の日本の教会のミサでは、主として「典礼聖歌集」という聖歌集が用いられている。
加えて特に私の住む関西方面では、この「典礼聖歌集」の定着の為に 「カトリック聖歌集」を排除してきた小教区教会が少なくない。
私が過去にミサに全く与らなくなった時の所属小教区は「カトリック聖歌集」を既に廃棄しミサでは全く歌わない教会だった。

この「典礼聖歌集」は、典礼聖刷新のながれのなかで、日本人の感性に合う琴線に響く聖歌を日本人の手で作るという意図があったということを、どこかで読んだ記憶がある。

「典礼聖歌集」にも良い曲が無いわけではないが、この「カトリック聖歌集」排斥に対する納得できない気持ちから、私にとっては「典礼聖歌集」は、やはり「押し付けられた聖歌」で、私も日本人の端くれでありながらもそれほど琴線に響かず、未だにどこか愛着がいまひとつのままになっている。

「典礼聖歌集」を否定するわけではない。
「日本人の感性に合う琴線に響く聖歌を日本人の手で作ろうとする意図」もあって良いと思う。
しかし「カトリック聖歌集」が馴染んできた歴史を断絶させる代替品であってはならない。 

よくよく考えれば、既に尊者として認められ、列福運動の話もでているチマッティ師が編纂した聖歌集を排除するというのは、日本の教会の為に尽くしてくれた師が残してくれた財産を捨てるに等しい。

排除するというのは、ちょっとどうかしている。

チマッティ師の想いに応えるために、先ずは「カトリック聖歌集」は残すべきだし、廃棄してしまった小教区は、再度購入し直し復活させるべきだ。


そもそも歌というのは、例えばスコットランド民謡だった歌が「蛍の光」として日本の文化に定着し、すっかり馴染んでいるというようなことなどを思えば、そもそも「日本人の感性に合う琴線に響く聖歌を日本人の手で作ろうとする意図」というのも(無意味とまでは言わないが)果たしてどれほどの意味があったのかとも思う。

いわば、こういう実験的試みのような聖歌を強引に主とし、それまでの世界的に親しまれた聖歌の存在を弱めてきてしまったところにも、ミサ典礼において世界に対し閉ざし、変化の繰り返しばかりでストックが積み上がらない日本の教会の姿がある。 

むしろ「カトリック聖歌集」こそ、ボーダーレスになってきている世界の現状を思えば、国境を越えた旋律の同一性や過去からの連続性がある今日的な聖歌集として、重要性や存在感が逆転し高まっているかもしれない。  

今回の記事をお読みの方で、カトリック求道中の方がもしおられたら、入門しようとしている教会に「カトリック聖歌集」が置かれているかチェックされることをお薦めしたい。

「カトリック聖歌集」の有無は典礼刷新の程度のリトマス紙で、無い教会(小教区)というのは、わたし的には、伝統を疎かにする問題のある小教区で、風土的におそらくちょっとしんどい。