来年2017年2月の高山右近列福式ミサが、当初で検討されていたラテン語主体の天使ミサではなく日本語中心のミサに変わってしまったということは、日本のカトリック教会の大阪教区をよく示す出来事のような感じがした。 
私は、なかなか簡単には受け流すことができずにいる。

友人から教えてもらったが、大阪教区時報の10月号に、ある神父(以下は仮名でA神父とする)の「ラテン語による列福式ミサ」への反対意見が投稿で載っていたらしい。
この投稿を知って、変更の理由の一端がわかった感じがした。
内容は全く共感はできないものの、ある意味、正直で率直な意見であり「なんでやねん。これでいいんか!」というタイトルで、生な気持ちそのまんまの不平を述べている。

そのA神父の投稿というのは以下の内容である。


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【以下引用】
最近いろいろと、いろんなところで起こる事件・事例に、「なんでやねん、これでいいんか!」と叫びたくなることがよくあります。事例を挙げればきりがないので、
皆様の思いにお任せしたいと思います。人それぞれの思いがあり、その思いの理由や原因は異なることかもしれません。しかし中にはどうしても黙っていることのできないこともあります。 そのことでも、人により、いろいろの対応がとられます。お上の言うことだから、黙って従えばよい。今までそうしてきたから、黙って我慢すればいい。何かモノ申せば、波乱が立つので…。組織だから、仕方がない…。教会だもの…。何も言わないで、お祈りすれば…。などなど。
これらのことを十分にわきまえながらも、どうしても口外し、皆様からご批判とおしかりを覚悟して、書きたいことがあります。
長年の運動とお祈りによって、待望のユスト高山右近の列福が承認され、大きな喜びに浸ることができました。現代の私たちの生活の中で、右近の生き様が、いかに大切なのかを受け取り、勇気と励ましをいただきました。オリンピックの金メダルで得られる喜びと励ましには比較にならないほど大きなものでした。 承認くださったローマの聖省にも感謝したものです。ところがある噂に驚かされました。思わず「なんでやねん!これでいいんか?」と叫んでしまいました。どんな噂?
列福式の式典がラテン語で行われることが、ローマの聖省から伝えられ、日本サイドが異議申し立てても受け入れられなかった。」という噂です。
第二ヴァチカン公会議以前の世界に戻ろうとする動きが、ちょこちょこ見受けられます。自国語ではなく、懐かしいラテン語の復活を希望し、実行している人たちもいるとの噂が、喜びの声として聞こえてきます。自分の言葉で、神様を賛美し、礼拝することの努力・喜びはなんだったのでしょう。この噂が、噂にすぎなかったことを切望します。
【引用終わり】
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ただし、結果として列福式ミサはラテン語天使ミサではなく、日本語主体、典礼聖歌主体のミサになるそうなので、このA神父の反対意見は汲み取られ、今回の列福式でのラテン語の排除は、ほぼ成就する。
この神父の心配はおおかた解消されるだろう。

A神父は、ラテン語ミサに対し「できない(可能ではない)」ではなく「望まない」という意味のことを述べている。

私は過去に、以前所属していた小教区で、天使ミサの実施を意見具申したことがあったが、その際に「(スキル的に)できない」とはぐらかされたことがあった。
私は当時、自己流でラテン語の祈りを家で祈り始めたころだったから、カタカナを付記し読みながら祈るということがそんなに大変なことに思えなかった。
意味的にもミサの通常文ならば日本語の祈りは頭に入っている。
噛み合わない会話に大変もどかしい想いがしたことをはっきり覚えている。

そういうはぐらかしよりは、「望まない」と主張するA神父は素直ではある。

このA神父の「自分の言葉で、神様を賛美し、礼拝することの努力・喜び」が大事という想いは、個人の心情としてはあっても不思議ではない。
そういう心情があることを否定するつもりはないし、日本語のミサには日本語のミサなりの意義があるということもわかる。


しかし・・・

毎週の主日ミサの話ではなく、この先いつあるかわからない何十年に一度あるかどうかの教皇代理の枢機卿様が司式する特別なミサにまで、日本語ミサを貫らぬく必然がいったいどこにあるのか?

というか、そもそも列福式のミサについては、前提として「列福式は、ローマで祝われる教皇司式の列聖式同様に、教皇庁の公式行事であり、教皇代理が派遣されミサの司式する以上、ラテン語になるだろう。」と日本の司教団のある司教様も言われていた。
ヴァチカンの列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿がミサの主司式者となるのだから「日本語を求めるのはそもそも無理で成り立たない」という客観的な現実論としての話だったのだと思う。

日本語の典礼では、司式されるアマート枢機卿はかなり困惑されるだろう。

アマート枢機卿だけではない。
高山右近が亡くなられた場所がマニラだったので、マニラ教区のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿も来日される。  
韓国などの他のアジア諸国の司教もお招きしているらしい。
タグレ枢機卿が来られることを思えば、多くの在日フィリピン人も参列するだろう。

そういうことを考えると、教皇庁公式行事であるこの国際的な列福ミサに参列されるであろう多くの外国人に対し日本語を強いるということは道理が合わないし、 日本語がわからない霊的兄弟姉妹に対する慈しみが欠落している。

ラテン語ミサには、国境と時代を越えて祈りが一つの声となる意義がある。
そしてそのことで気持ちが一致する喜びがある。

ラテン語ミサ排斥論者は、このことへの想像力が全くない。  

こういう背景がありながらも、「自分の言葉(つまり日本語)で、神様を賛美し、礼拝することの努力・喜び」という自分本位な想いに徹底してこだわり、それを理由にラテン語ミサをぶっ潰した。

「なんでやねん。これでいいんか!」という言葉は、今ではA神父ではなく、私が発したい言葉になってしまったが、そういうことを言っても虚しく心の平安は得られないということだけはわかる。

気持ちの一致が削がれたり、心が乱れることが、そもそも福者ユスト高山右近に対し申し訳なく、素直な気持ちで心静かに列福式を迎えられるように祈ったほうがきっといいのだろう。