カルメル会宇治修道院の中川博道神父の講話の資料を手に入れたのでご紹介したい。

中川神父が東京から京都に異動されたのは2〜3年前だったと思う。
関西にいることは知っていたが、いままで話を聞く機会をなかなか持てないでいた。

説教の評判については聞いていたが、実際に読んでみると、ぐいぐいと話に引き込まれる。
言葉の運び方の上手さもあるが、誰もが悩み、教えを乞いたいと思うテーマを選ばれていることもあるのだろう。

教会で聞きたい話というのは、こういう話だ。

読むだけではなく、いつかは、直接、話を聞きたい。

今回の講話では、聖ヨハネ・パウロ二世の「サルヴィフィチ・ドローリス」という書簡がテーマにとりあげられている。

「苦しみの意味」についての講話で、以下はその内容である。
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「苦しむものとともに苦しむ神   〜サルヴィフィチ・ドローリスより苦しみのキリスト教的意味を探る〜」

■苦しみの中から生まれた書簡
「サルヴィフィチ・ドローリス」はヨハネ・パウロ二世が二度にわたる暗殺未遂事件によって心身ともに深く傷つかれた中で書かれた 圧倒的な迫力を持った書簡です。この中でヨハネ・パウロ二世は、苦しみは人間に付随する普遍的テーマであり、人間は苦しむ者である、そしてそれはどこにいてもどの時代にも変わらない現実であると言っています。

■本当の自分へ呼ばれる
苦しみの意味を探し求めることの中に、自分が自分になってきたプロセスがあります。苦しみの中で本当の自分へと呼ばれていくのです。ヨハネ・パウロ二世は、わたしたちの苦しみはキリストの苦しみに結ばれて、人の贖い、救いに必ず結びつくということを示しています。
自分が苦しむこと、乗り越えようとしてもがき続けることが、それがどんな苦しみであったとしても、主において受け止めて生きていくということが、人の救いに結びついていくのです。

■苦しみの二つの側面
苦しみには二つの側面があります。苦しみには人間的な意味として、自己を超越させながら本当の自分になっていく道が隠れていると同時に、超自然的な(神の)意味として、キリストとともに苦しむことによって人の贖い、救い、神との出会いの回復がなされていきます。
この書簡の中から見える苦しみについてのモティーフ(動機)は、二つのポイントがあります。
苦しみによってわたしたちは本当の自分へと抜け出ていくこと、そしてこの苦しみは、キリストとともに苦しむときに、人が神と出会っていくこと、贖いを実現していくことです。

■人生の振り返りと意識化の必要
 苦しむというテーマが人間のテーマであるとするならば、人間そのもののテーマを考えるとき、神との関係性なしに人間のことはわかりません。苦しみの意味がわかるということは、人間の意味がわかるということ、そして神の本質がわかるということであり、つまり神のもとにいけば苦しみの意味がわかるのです。自分は何を苦しんできたのか、という人生の振り返りをすすめます。苦しみの意味を考えることは、自分の人生を考えることと重なるからです。意識化して整理することによって、「なんとなくの不安」がすっきりします。不安をかきたてられたり、先が見えなくて苦しみを募らせていくようななかで、いくつかの言葉が自分を支えてくれることがあります。

■苦しむものとともに苦しむ神
イエス・キリストは苦しみへの究極の答えです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)という聖書の箇所から、わたしという存在は、父と子と聖霊の交わりの神が、独り子を失ってでも失いたくないと思った存在なのです。またキリストの十字架の出来事を通して、キリストのおかげでわたしたちが苦しむことの中に意味が生まれました。ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは、誰のために苦しんだのか、ということを絶えず明らかにしています。自分を愛してくださった究極の相手である神のために苦しむということなしに、究極の苦しみは耐え得ないのです。ヨハネ・パウロ二世ははっきりと、苦しみは試練だと言います。これは「善きサマリア人」につながることですが、善きサマリア人はキリストの生き方にわたしたちが招かれるということです。「追いはぎにあった遭った人」、つまりひどい目にあって立ち上がれないくらいに傷ついている人、奪われた人、そのような人はまわりにたくさんいます。ヨハネ・パウロ二世がすすめることは、そのような人に近づいていって、自分の一日を捧げてでも、自分に痛みが伴うことでも、寄り添うことです。そうしていくことで人は必ずこの苦しみが自分の救いになり、また人の救いにつながっていきます。苦しみの救いの働きの意味はこのようなところにあるのです。