2017年2月7日に大阪で予定されている高山右近列福式ミサは、ラテン語ミサ(天使ミサ)で行われるという話があったが、残念なことに、いつもの典礼聖歌主体の日本語のミサになってしまうらしい。

ある意味、予想どうりというか、ああやっぱりという感は否めず「大阪教区が主体だからなあ」と変な受け止め方をしてしまう。

影響力のある人の意見か、想いの強い人の声の大きさによるのかわからないが「どうしてもラテン語ミサは認めたくない、止めさせたい」という情念???があるのか、そのネガティブ思考の強さに呆れる。

本来であれば、400年前に高山右近も与っていたであろうトリエント・ミサ(特別形式ミサ)であれば本当に意義深いのだが、現時点ではなかなかそこまでは無理だとは思う。

だからせめて通常文だけでもラテン語の天使ミサであればと思うところだが、今の大阪教区の雰囲気、風土ではそれすら無理というのが情けなく寂しい。

しかしどうしたことか、何故かあわれみの賛歌だけは、天使ミサの「キリエ」になった。
入祭の歌は、いつくしみの聖年公式賛歌になった。
そして拝領の歌でカトリック聖歌の「ひせきにこもりて」が選ばれた。
閉祭の派遣の祝福も「ラテン語かも?」ということらしい

ほんの少しであってもなんとか伝統色を残そうとしてくれた人がいることに感謝で、このことでなんとか自己納得しようとしている。
 


いっぽう東京では、来月11月5日に荘厳司教ミサが行われる。

1000人以上の人がグレゴリオ聖歌ラテン語で捧げるミサが存在するという東京と、天使ミサですら無理という大阪の風土との差には唖然とするしかないが、これはやはり今年で26回にもなる荘厳司教ミサそのものの実績によるところが大きいのかもしれない。
このミサを始めたカトリック・アクションの先達に先見の明があったということで、このことには本当に感謝と尊敬を覚える。

荘厳司教ミサの目的というのはシンプルで、「日本に住む我々にとってローマは遠く巡礼も容易ではなく、せめてヴァチカンのミサに与ったような気持ちになれるミサに日本で与かりたい」という素朴な想いが動機になっている。

「ミサは日本人が作った歌で全て日本語で」というラテン語排除のこだわりこそが、つまらない理屈であって、日本人信徒の素朴な心情を無視し寄り添っていない。

その11月5日まで、あと2週間となった。

「日本におけるヴァチカンのミサ」が荘厳司教ミサの目的であることを思えば、「跪き」を排除する「日本における適応」も考える必要はなかろう。

身体的に「跪き」をすることに支障がない方で、「日本における適応」のことでミサでの跪きをためらっている方は、荘厳司教ミサでは、聖変化でも聖体拝領でも躊躇する必要はないと思う。