長崎の外海地域に、枯松神社という、カクレキリシタンの神社がある。

NHKで「新日本風土記」という番組の、長崎がテーマになった回を録画していて、この回を先日見てみたら、この枯松神社と「カクレキリシタン」についてとりあげられていた。 

枯松神社は、日本で三社あるとされるキリシタン神社のひとつである。 

宣教師だった
サン・ジュワン様が亡くなった場所、葬られた場所で、そのお墓らしい。 

生月の中江ノ島で祀られているのも、サンジュワン様だが、こちらのサンジュワン様は、殉教者のヨハネ次郎左衛門のようで、外海とは同一人物では無いようだ。

サンジュワンはポルトガル語のサン・ジョアンのなまりで聖ヨハネのことらしく、別々に存在するカクレキリシタンの共同体で、同じ聖ヨハネの名前が残ったのは何かの因縁のようにも 思う。

今ではカクレキリシタンの共同体もかなり縮小しているようで、この枯松神社がある外海も50人ほどの共同体らしい。

ウィキペディアでは、学術的には「カクレキリシタン」という呼び方になると記載されているし、一般にも定着した呼び名だが、私はこの名称はあまり望ましくないと思う。
先祖の信仰を守り続けているだけで、今では「カクレ」ているわけではない。
せめてカトリック教会だけでも「古キリシタン」というような名称で呼んだ方が、敬意が込められている感じがあってふさわしいような気がする。


オラショの奉納の場面もあった。

「我らがデウスサンタクルスのお印をもって我らの敵をのがしたまえ。デウス パーテル デウス ヒーリオ スピリツ サント みなをもってアーメン てんにましますわれらがおんおや みなをとおとまれたまえ みよきたりたまえ・・・」

一部聞き取れないところもあったが、ちょっと驚いた。

ラテン語の
「イン ノミネ パートリス エト フィリィ エト スピリトゥス サンクティ」と
昔の文語の主祷文の祈りである
「てんにましますわれらのちちよ、ねがわくはみなのとおとまれんことを、みくにのきたらんことを・・・」
とよく似ている感じがしたのである。  

弾圧を逃れながら400年以上も密かに伝承した祈りだが、内容的にはカトリック教会の祈りと同じというのは驚異的で、400年の永さの中で変えずに守り抜いた伝承の凄味と、カトリックとの同一性に驚く。

取材を受けた「カクレキリシタン」のMさんは、帳方(カクレキリシタンで司祭の役目を担う人)であったお父上が亡くなられて、50人ほどの信仰共同体の維持のために決意し、自分も帳方となられた。 
几帳面な方のようで、カクレキリシタンの祈りや儀式や暦について、手引書のかたちできれいにきちんと整理しまとめられていた。
先祖のから伝承された遺産を未来に繋ごうという想いからだと思うが、Mさんはサラリーマンをされていたそうで、運営管理的な視点でナレッジ化が必要という考えもあったかもしれない。
いずれにしても、これは驚くべき資料で、後々、大変貴重なものになると思った。 

Mさんの家庭祭壇には、十字架やマリア様の御像もあり、なんと聖ヨハネパウロ二世教皇の写真もある。
カトリック教会のこともよくご存知なのかもしれない。

この外海では、地元のカトリック教会の司祭の呼びかけで、枯松神社祭という行事が、近年になって行われるようになったらしく、カクレキリシタンと、カトリック教会と、地元のお寺の天福寺の三者が集まり、合同で、先祖の慰霊の為に祈る場が生まれている。
これはとても素晴らしいことだと思う。

数百年の迫害弾圧の歴史を思えば、カクレキリシタンが信仰を守り繋いだ偉業に対しては、もっと日本のカトリック教会は敬意を示すべきだと思うし、今後も古キリシタンの共同体が存続していけるように、カトリック教会の側から 手を差し伸べる必要があると思う。

もし断絶してしまったら将来に禍根を残す。
小教区にまかせるだけでなく、優先的な課題として、司教様全員が先頭に立って古キリシタンとの教会一致に向けたアクションを示してほしい

常に弱者に目線を向けるフランシスコ教皇は、日本のカクレキリシタンに対し「つねに神の民の一員であり、この歴史から多くのことを学ぶことができる。」と言われている。
もし仮にフランシスコ教皇が来日されるようなことがあるとするなら、あの方ならば真っ先にこの「古キリシタン共同体」を訪れる可能性は大いにあり得るのではないか? 

正式にローマンカトリックに帰一してもらうためにどういう方法があるのか私はよくわからないが「属人区」のようなある程度、独立性のある共同体として併立し、古キリシタンの典礼を保つことができれば素晴らしいと思うのだがどうなのだろう。

バチカンとの橋渡し、仲立ちができれるのは、ほかならぬ日本のカトリック教会である。

もし同じカトリック教会の家族である「古キリシタン属人区」が誕生すれば、 今の日本のカトリック信者に与える精神的影響もとても大きい。

これこそ真のインカルチュレーション、文化的受肉ではないか?

少なくとも、「跪きは、日本の文化にはないから排除する」というような、納得しがたい無意味で理解不能なインカルチュレーションよりは、わかり易く正しい姿だと私は思う。