前回、話題にさせてもらった統計数理研究所のホームページ「日本人の国民性調査」は、日本の国で共に生きる同胞の意識を知る意味でなかなか面白い。

「宗教観」についての統計(2013年)もある。

「宗教を信じるか?」(あなたは何か信仰とか信心を持っていますか?)という質問は、
もっていない・信じていない」 72%
「もっている・信じている」   28%

「宗教か科学か」という質問では、
「宗教は救いにはならず、科学の進化で救われる」 12%
「宗教と科学が協力し合っていく必要がある」   45%
「科学の進歩は人間の救いとは関係ない。人間を救うのは宗教の力だけである」 3%
「科学が進化しても、宗教の力でも、人間は救われるものではない」      32%
という結果になっている。

「科学でも宗教でも人間は救われない」という回答には、どのような真意があるのだろうか?

あきらめのようなペシミスティックでネガティブな反応もあるだろうけれども、例えば「人は人によって救われる」という考えあるのかもしれないから、この「科学か宗教か」という設定は、ちょっと強引な二択になっている感じはする。

総じてこの調査では、積極的に宗教を信じる人は少数派のような感じだ。

ただし矛盾しているとも言えそうな数字もある。 

「宗教心は大切か?」という別の質問では、
「大切」    66%
「大切でない」 21%

「あの世を信じますか?」という質問は、
「信じない」  33%
「どちらとも」 19%
「信じる」   40%

設問の妙によって、日本人らしいあいまいさが浮き彫りになっている。

どうやら、現代の日本の社会に生きる人々にとっては「宗教」と「宗教心」という微妙な言葉の違いでそれぞれ異なった感覚を持つようで、者の場合は、既存の宗教(団体?)をイメージして近寄りがたいというような感覚を持ち、後者に対しては、個人的な内的信心で自然な心情と受け止めているのではないかと想像した。

「宗教」と「宗教心」の言葉の間に「信じることは難しいが信じたい」という微妙な心情が漂っているようにも感じる。 
つまり「宗教」と「あの世」や「神様」がイコールではなく、「宗教は信じてない(信じている自信がない)があの世はある、あるいは神様(人間を超越する存在)はいるような気がする」ことなのかもしれない。

つきつめれば、この「宗教を信じるか?」という問いは、やはり「苦しさからの救い」において「何を信じるか?」という問いでもある。

苦しみは「問題解決」によって救われる。例えば病気に苦しむ状況にあったとしたら「問題解決の実効性」を求め病院を訪ねる。
しかし病院では、問題解決するすべがないこともある。

やはり人生では解決しない問題が多くあるのである。
 

上述のアンケートにもどれば「宗教か科学か」という質問は、宗教とを科学を並列で比較しているが、人生の苦しみにおいては並列ではなく、科学(医学)では解決できないことを知る苦しみのなかで、その先にある「宗教」の姿が目に止まるのではないか?

解決しそうにないから苦しいし「それでも救われたい」から「救いを信じたい」気持ちへ転嫁する。

私が晴佐久神父を尊敬するのは、その救いを求める気持ちに対し、「あなたは必ず救われる」という「救いの断定」によって、真正面からその願いに応えてくれるところだ。

自分の力ではどうしようもないとき「神様助けてください」と祈り「神様の御業(みわざ)」に縋る。
「救いの断定」とは、「救いの御業を信じること」 であり、いうならば「救いとは『救われる』と信じること」「信じることが救い」ということなのかもしれない。 


宗教」の姿が目に止まるということを書いて、思い浮かんでくるのが画家のカラバッジョの描く「エマオの晩餐」の絵だが、この絵の登場人物である宿屋の主人には、目の前の人物が「復活したキリスト」の姿としては見えていない。

同じ絵の登場人物であるキリストの死を落胆していた二人の愛弟子には、目の前の「
復活の奇跡、神秘」に気づき驚く。

私にとって「宗教(教会)」は「神様の御業(みわざ)」を願い祈り信じる場であり、そのために必要なのは「神秘」、つきつめれば「ミサ・御聖体」ということなのだろう。

エマオの晩餐