若葉修道院のUVJの特別形式ミサ(トリエント・ミサ)に与り始めたころ、ミサ後の懇親会で「どうして特別形式ミサに与ろうと思ったの?」と尋ねられ、「好奇心からです」と返答をしてしまった事があった。

特別形式ミサの希少性を思えば仕方がないのだが、あまりにも素直すぎる返答だったかもしれない。

しかし「一度体験したから、もうそれで充分」とはならなかったのは、一度与っただけではわからなかったことが、あまりにも多かったからなのだろう。

同時にまた、当時の所属小教区教会の刷新系のミサに、心の奥底では満たされない気持ちがくすぶり続けていたから、東京に上京する機会を利用しながら、若葉修道院のミサに度々与ったことで、なんとなく深みに嵌ってしまった。


特別形式ミサの持つ、ラテン語典礼の荘厳さ豊かさというものに惹きつけられるというのは確かにある。

しかしそれだけが理由ではない感じがしている。


所作によって、祈りの深さを感じる構造になっているような感じがする。

例えば
DOMINE,non sum dignus,ut intres sub tectum meum sed tantum dic verbo,et sanabitur anima mea.

という聖体拝領の直前の祈りの時。

跪きながら我が身を小さく屈め胸を叩くとき
、ご聖体を前にして、もう子供のように主に縋りつくしかないと思っている私がいる。

年齢と共に抱え込む重荷が益々重たくなっていて、悩みが深くなってきている。
自分の限界もわかってきた。
もうミサに全面的に依存したい。
当たり前のことかもしれないが、悩みが深ければ深いほど、
ミサが必要になってきているのである。

特別形式ミサは、悩める中年男性が、憚ることなく我が身を小さく屈めることで、貧しい素直な心になれるわかり易いミサなのかもしれない。

存在し得ないミサになるが、もしかしたらラテン語ではなく日本語(文語)で、同じ形式のミサがあったとしても、特別形式ミサらしい良さというのはかなり体感できるのかもしれない。

所作によって言葉の深さを体感するミサであり、言葉に対する感性が鈍ってしまっている時には、通常形式よりもやはり心に残る。

毎週日曜日に、淡々と時間が経過するような感覚でミサに与っていては、教会に行く意味が薄れてしまう。

「どうしてミサに与るのか?」 自問自答は続いている。