今回の地震被害は大きく、大震災の様相を呈している。

様々な募金が行われ始めているが、それぞれに用途が違うので見極めながら複数の募金を行ったほうが良いようだ。

「義援金」という名前の募金は被災者に直接届くものになるらしい。

日本赤十字  だけでなく 熊本県  も募っている。
(※「熊本市」のサイトもあったがアクセス集中だろうか?繋がらなくなってるようだ。)

「支援金」という名前の募金は、災害被害にあった公共機関への寄付になるようで、
熊本市は、熊本城の修復再建目的の支援金を募っている。

現時点では、被災地域での救援活動に費用がかかるから、支援団体への寄付も、同時に行ったほうがいい。

カトリックの場合は、 カリタスジャパン がある。
収支報告の細かさではカトリック信者ではない方からも評価があると言われている。
カトリック福岡司教区  でも募金を募っている。熊本の教会のためにも募金が使われると思う。

このような事態を迎えての支援というのは、物的支援、経済的支援というものが、先ずは有効で効果的な支援だ。

こういうお金の話を主とするならば、
世の中の声の中には
「無理のない範囲で支援して普段通りの生活を続ければいい」
「自粛して経済活動が冷え込めば、結果的に被災地支援にならない」
という意見もある。

理屈に合っていて現実的な考え方だと思うが、自分本位な表現で、傷ついた被災者への共感、祈りの姿勢に乏しいような気がする。
「自分の普段通りの生活は変えたくない」という気持ちがストレートに表われているようでザラザラした感じだ。

もしかしたら 「被災地の人たちが悲惨な状況にあるなかで普段通りの生活を続ける」ことに対する「やましさ」から、募金額が増えるということもあるのかもしれないが、 多くの場合は 「無理のない範囲で支援して普段通りの生活を続ければいい」という姿勢ならば、人間とは弱い生き物だから 、日常的な空気感のなかでは 募金をしようと思う心の動きも鈍るのではないだろうか?

経済的に豊かな人は違うかもしれないが、庶民的には、 募金しようと思えば何かの支出を削ることにはなると思うし、そういう(募金に回す為に自分の事での)支出抑制は、あって当然である。

世間で言われる「自粛」の定義がよくわからないが、被災地被災者というかたまりではなく、傷ついた一人一人の人間の苦しみ悲しみに寄り添うためには、自分は傷つかずに経済の好循環によって支援の有効性だけを満たせば良いということではないような感じがする。

「やましさ」という心の動きも、被災者に対する心が疼きから生まれるものであるかもしれず、やはり被災者への同情や共感が出発点にあって事は動く。

心の疼きは祈りの起点だ。

キリスト教的には、被災者の為に祈り、犠牲を捧げる事は尊い。

マザーテレサの元で働いていた 片柳神父が次のようなメッセージを発している。

「祈りなど無駄だ」と言う人がいますが、そんなことはありません。相手の顔を思い浮かべ、相手の悲しみと苦しみを想像しながら必死に祈るとき、自分のすべきことが分かるからです。

祈りが、犠牲や行動を促すというメッセージである。

「祈りと共に行動する」あるいは「祈りながら行動する」
私はこちらの姿勢のほうが、被災者に対して誠実であり、素直な感じがする。


人間には、利己的な心と利他的な心があって、 この二つの心の間を日々、振り子のように 揺れ動く。

利他的な方に振れたときに始まる心の動きというのは、すでに祈りが始まっているということなのかもしれない。

やはり苦しむ人が多くいる今の状況では、振り子を利他的な気持ちの方にあえて振った方がいい。