ネットでいろいろなブログを読むと、私の福音の理解の浅さを知ってしまって、なかなかブログの更新ができなくなってしまうことがある。

私の場合、年月がいくら過ぎても教理の理解は深まっておらず、右脳で直感的に神様の愛を欲しいと求めているばかり。
情けないが、ため息をつきながらも、人それぞれだから仕方がないとも思う。

ところで今年の聖週間は、仕事の都合や、家族の予定もあって「枝の主日」「復活徹夜祭」「復活の主日」の3つミサを、それぞれ違う教会で与る事になった。

普段は仕事が忙しくても、多少家族の用事があっても、日曜のミサぐらいならば所属教会のミサに与れるのだが、今年の聖週間では所属教会のミサは「復活の主日」のみ。

「枝の主日」と「復活徹夜祭」のほうは、慌ただしい自分の予定とミサの時間の整合で、どこの教会のミサに与れるかがだいたい見えてくるので、とにかく為すがままに出向く。

しかし偶然といえば偶然だが、両方とも大きな御恵みを感じるミサになった。

特に「復活徹夜祭」ミサの方は、驚くことにラテン語のキリアーレになる「天使ミサ」だった!

加えて
「告解」もできて
洗礼式があるので「諸聖人の連願」もあり
「香ミサ」でもあり
「灌水」もあった。

ここまでくると、関西にいる私にとっては、普段ではあり得ないミサだったと思う。

また所属教会の復活主日ミサも良かった。
おそらくどこのカトリック教会でも歌われる、典礼聖歌の「復活の続唱」はとてもいい。
しかし聖体拝領の聖歌が、カトリック聖歌の「ひせきにこもりて」だったことは、そういうレベルではない良さがあった。

「ひせきにこもりて」の記憶は子供の頃まで遡ってしまう。
私の場合、カトリック聖歌を完全に排除してしまった小教区の所属ばかりが続きしかも長過ぎた。
そういうカトリック聖歌を歌わない小教区を離れて、いまの小教区に移ったのは間違っていなかった。
「永遠になつかしきなぐさめ主よ」という歌詞のままに懐かしく、本当に癒しと慰めを感じる。 

カトリック聖歌を排除するというのは、いったいどういう意味があったのかは全くわからないが、こうして「ひせきにこもりて」を一曲を歌うだけで、カトリック聖歌の存在理由を見いだせるように私は思った。
  
もっともこのカトリック聖歌排斥教会が排除していたのは、カトリック聖歌集だけでなく、あれもこれも排除されていたから、そういう私には合わない刷新系の教会だった。
なにしろ主聖堂に聖櫃が無いんだから・・・

気持ちが高揚し高まるなかで、「私の与える水を飲む者はいつまでも渇きを知らないだろう(ヨハネ4ー14)」という聖句が思い浮かんだ。
 
感覚的な感じる信仰でしかない私の拙く貧しい信仰に対しても、神様は憐れんでくださり慰めを与えてくださった。

今回は、何か目に見えない力に誘われたような不思議な気持ちでいる。