グーテンベルク42行聖書を起点に、活版印刷やコンスタンチノ・ドラードをブログのテーマにしたからか、再び、キリシタンの時代に関心が向き始めている。

コンスタンチノ・ドラードについてもう少し詳しく知りたいと思って、amazonで関連する書籍を注文して届くのを待っているが、ついでに以前どこかで書評を読んで気になっていた「みんな彗星を見ていた」という星野博美さんの本も電子ブックで注文した。

というか、こちらは電子ブックなので注文と同時に直ぐ届く。

「直ぐ手に入る」「持ち運びで荷物にならない」「安い」というメリットとともに「場所をとらない」というメリットもあって、もう限界に近い本棚の状態を思えば、電子ブックで買える本はそちらのほうに変えていったほうが良いと思い始めている。

しかし電子ブックは良いことばかりではない。
どこまで読んだかがわかりにくく、全体像をつかみにくいのである。

加えて、技術的なアプローチでは解決しそうにない問題もある。
質感というか、手触り感だ。

「本を読む」作法としては、
タブレットの表示面が紙の手触りと比べるとやはり硬いので、ページをめくるときに、温かみが無いのである。
本を読むという行為に刷り込まれた人間の感覚は、そうそう簡単には切り換わらないのだろう。

「みんな彗星を見ていた」は、本の内容との相性を思えば、手触り感的に普通の書籍のほうが合っていた。
しかし、こういう事は、読み終わらないとわからないから仕方がない・・・


この本が気になったのは「私的キリシタン探訪記」というサブタイトルに興味を持ったからだ。

私は幼児洗礼で、物心ついた時には既にカトリックになっていたので、大人になってからキリシタンやカトリックに関心を持つ人に興味があるのである。

この本は、著者の人生での様々な経験、出会いを語りながら、次第にキリシタンの物語に好奇心を持つプロセスが語られている。

星野博美さんの本はいままで読んだ事はなかったが、自分の体験談を織り交ぜながらグイグイ読者を引き込んでくる。
「私的」な体験談については軽妙な語り口と言ってもよく、スイスイ読み進めることができる魅力的な文章である。

星野さんは、子供の頃にNHKのある大河ドラマを見て天正少年使節を知り、そのことが記憶に残っていたらしい。
不思議なことに、2008年に偶然に187殉教者列福式のポスターを
見かけて、その列福者リストに中浦ジュリアンの名前を見つけた。
その時に天正少年使節の記憶が蘇って、キリシタンへの興味が膨らんだようだ。

天正少年使節が秀吉の前で弾いたと言われるリュートという古楽器を、実際に習ってあの時代を感じようとするところが星野さんの持ち味だろう。
私自身も特別形式ミサ(トリエント・ミサ)に与る心境の一つに、キリシタン時代のミサとの同一性を体感したいという気持ちがあるので少し似ているような感じがした。

しかし星野さんの探究心は、NHKの大河ドラマで描かれるような、安心できる宣教師像で終わらない。

苛酷な弾圧にさらされ殉教する宣教師の姿にも真っ直ぐに目を向けていく。
キリシタン史は情報量の多さからイエズス会の視点になりやすいが、この本ではどちらかといえば托鉢修道会からの視点に立っていて、ドミニコ会の宣教師の事など新たに知る事実も多かった。

私は、若い時に読んだ遠藤周作さんの「沈黙」の影響かもしれないが、棄教者の惨めさや哀しみに自己同化してしまって、殉教者については、自分とは違うレベルの超人的な存在に感じてしまって、自分とは切り離して見てしまうクセがなんとなく残っていたのかもしれない。

しかしこの本を読むと、殉教者も人生の旅路を歩む私と同じ一人の人間である事に(当たり前の事なのだが)あらためて気づかされる。

星野さんは「この時代に犠牲になったのは、列聖者42人 列福者393人 記録の残る殉教者約4000人 充分な記録のない殉教者は4万人である。」と書いたうえで、「ヴァチカンの列聖とは、『あなたの存在を忘れない』という執念、つきつめれば『記憶する』という一点に行き着く」という見方をする。

そして殉教した宣教師の前半生をさらに知るためスペインの片田舎の出生地にまで出かけて行くのである。

知りたいという気持ち、記憶に残したいという気持ち、誰かに事実を伝えたいという気持ちも、一つの愛の姿であると教えてくれているようにも感じた。

amazonのユーザーレビューは、11名の投稿者全員が五つ星になっている。

同じく私にとってもとても印象に残った本だった。