「福音の村」ブログの晴佐久神父の説教で、リジューの聖テレジアの話があった。

リジューの聖テレジアは、「小さき花のテレジア」とも呼ばれる。

書籍が多いにもかかわらず、いままで私はあまり接点を持てずにいたが、日本の教会では「小さき花のテレジア」という洗礼名が比較的に多い感じがする。
日本では影響力の強い聖人かもしれない。

もうかなり前になるけども、1986年制作の「テレーズ」というフランス映画があって、見ようと思った時期があったのだが、結局機会を逸してしまった。
googleで検索したら、中古のビデオテープはまだあるみたいだけれども、DVDが見当たらず、今ではもう見る事は難しくなってきている感じがする。

画像検索をすると、この映画のポスターがある。
目線をやや上を向けた何か強い意志を秘めたような、力のある表情をしている若い女性が髪を切られている。
このポスターの画像は、なんとなく覚えている。

※注(google画像検索では「テレーズの罪」という映画がすぐ見つかるが、この映画はモーリヤックのテレーズ・デスケルーが原作のようなので聖テレジアの話ではない)

聖テレジアの生涯は、「子供の頃に母を病気で失った少女が、修道院に入り、自らも病気で24歳の短い生涯を終えた」という短い話で終わってしまうとも言われる。

しかし自叙伝「ある霊魂の物語」によって、その短い生涯における信仰生活が「小さな花のような、自己犠牲、眼差し、言葉をもって、愛のために為す行為とする」という想いに基づいた修養であった事が伝わり、後にカトリック教会にその思想が大きく影響を与える。
聖人になる早さが異例であったらしい。

日本で「小さき花のテレジア」の洗礼名が多いのも、この「小さな道」という信仰のあり方が、どこか日本人の琴線に響くようなところがあるのかもしれない。 

一方、この「小さな」という言葉は、日本の教会では、解放の神学的な「社会から抑圧された小さくされた人」という文脈でも、よく登場する。 
同じ「小さな」という言葉が散りばめられていても後者の場合は、どこか「階級闘争」な匂いがする。
こういう話は、聖テレジアの「小さな道」の話とは違って、かなりイメージの違う話の展開になる場合があり、必ずしも共感できるとは限らない。
共感できない理由を上手く説明できないのだが、そういうことが昨今の日本のカトリック教会では少なくない。

聖テレジアの生涯は、歴史に残る事業を成し遂げた人生というわけではない。
慎ましく幼子のような信仰を持って「小さな道」を歩んだだけの生涯。
しかしその信仰は眩しい。


聖テレジアの話を書いていると、私の信仰生活の「なまぬるさ」を感じてしまって、検索ついでにgoogle で「なまぬるい信仰」と検索してみた。

もう帰天された方だが小池二郎神父の説教集ホームページが見つかった。
http://www.koshien.net/KOZA/Fr_Koike/

「霊に対する冒涜は許されない」
という題の説教は新鮮。


「多神教の思想は平和の原理か」という話は、『千と千尋の神隠し』を引き合いにしながら多神教的を思想が平和の原理であるという論 を展開する朝日新聞の社説をスパッと切って気持ちがいい。

良い説教だと思った。

今回、私が偶然のように、小池神父の説教ホームページと出会う事が出来たのも「聖テレジアのお導き」と思ったりしてみる・・・