江戸時代中期に「親指の聖母」を携えて、日本に渡来したシドッチ神父は、江戸キリシタン山屋敷に収容される。

江戸キリシタン山屋敷は、元々は、宗門改役大目付だった井上筑後守の小日向下屋敷である。
井上筑後守は、殉教者を出さずに転ばせることに力点を置いたので、棄教したバテレンの住まいが必要で、キリシタン山屋敷はその為の場所だった。
棄教したジョセフ・キャラ神父(改名後は岡本三右衛門。遠藤周作「沈黙」のロドリゴのモデルとされる)もここに収容され生涯を終える。

ただしシドッチ神父の場合は、江戸時代中期の1708年(宝永五年)の渡来で、それまでの宣教師とは繋がりがなかったし、直接的にはポルトガルと関係がなくローマの使節であることを強調したためか(宣教をしない条件のもとではあるが)棄教は迫られず、祈祷書の所持や祈りまで許された。

加えて、新井白石という聡明な儒学者との真摯な対話がなされたこともあって、凄惨な記録の多いキリシタン迫害の歴史の中でもささやかな救いになっている。 

新井白石は、シドッチ神父の処遇に際し「第一にかれを本国に返さるる事は上策なり」と上申している。

残念ながら受け入れられなかったが、この上申には
「シドッチがキリシタンであるのは生国の慣し。直ちに処刑するは容易いが心なき技。仁にもとるゆえ易しくない」
「拘禁の継続は役人にも長く心労をかけるばかりか囚人に対し残酷な処置。容易いようで最も面倒」
という内容もあって、先入観に捕われず目の前の現実を直視した上で倫理的に正しい判断を行おうとする理性と温情を感じることができる。

新井白石はキリスト教は全く理解しようしなかったが、シドッチ神父との対話で得た知識を元に「西洋記聞」を記す。

新井白石との出会いがあったためか、または重文の「親指の聖母」の所持者であったためか、シドッチ神父については関心の持たれ方が幅が広く書籍が多い。

近年では、古居智子さんの「密航 〜最後の伴天連シドッティ〜」という本がある。
「羅馬人と出会い候こと一生の奇会たるべく候」という白石の言葉が、本の表紙の帯にあり、新井白石がシドッチ神父との出会いをどのように感じていたかを垣間見れる感じがする。
古居さんは、屋久島への関心からシドッチ神父の話を知ったようで、屋久島上陸の際の描写が特に細かい。
この本は読み応えがあってとても良かった。

サレジオ会のタシナリ神父の書かれた「殉教者シドッティ」という本もいい。
キリシタン屋敷跡が住宅地になる前に調査した記録をもとに大変細かく書かれている。 
キリシタン山屋敷を正確に詳しく知ろうとする気持ちが、図解などを交えた緻密な描写にも現れている。
この本には、ジョセフ・キャラ神父(岡本三右衛門)の墓が、調布のサレジオ神学院に移されているということも書かれてある。
手触りの感覚で当時を偲ぶ手助けになる本という感じがした。


高木一雄さんの「江戸キリシタン山屋敷」という本は、キリシタン屋敷を話の中心に、年譜を追いながら、様々な殉教者や棄教者が、江戸で繋がり重なっていった歴史を綴っている。
この本で新たに知る人物や歴史がある。


こういったシドッチ神父の話を知る中で、新井白石以外にも彼と関わった人物で、どうしても気になる存在があった。
シドッチ神父の中間となった長助、おはるという老夫婦である。

二人はシドッチ神父の身の回りの世話をするための中間であった。

元々は、罪人(キリシタン?)の子供であったため、幼少からキリシタン山屋敷で養われ外に出ず、岡本三右衛門の中間も務めていたらしい。三右衛門の後家と共に墓参りをした記録があるようだ。

一方、キャラではなく黒川寿庵(明国人の修道士、キャラと共に棄教)の中間であったという説もある。
寿庵から洗礼を受けたとも、その時は受けなかったがシドッチ神父から受けたとも言われる。
洗礼については諸説が多くて真実は定まらない。

ただし長助、おはるは、絵踏みの記録があるので、表面上はキリシタンを棄てたことになっていたのだが、シドッチ神父との出会いによって心境に変化が生じ、信仰を明らかにした。

審問後の白石の「本国に返さるる事は上策」という上申は叶わなかったものの、緩やかなものであったシドッチ神父の幽閉は 、この長助、おはるの信仰の告白によって大きく変わる。
このときは将軍家宣の病死に伴い白石もまた権力を失い、シドッチを庇うものはいない。

長助、おはるは、地下牢に移されたシドッチ神父と共に、江戸での最後の殉教者となる。 
苛酷な時代の中で、キリシタン山屋敷に関わり続けた人生であった。 
キリシタン山屋敷の記録と共に、長助、おはるの名前が残り、私たちはその哀しみに満ちた生涯を想い、祈ることが出来る。

シドッチを含めたこの三人の江戸での最後の殉教は、1714年正徳四年)。
時代は既に、八代将軍徳川吉宗の時代になっている。

江戸でのキリシタンの記録は途絶え、日本では、潜伏キリシタンとなった長崎の信徒のみが公には知られないままキリスト教徒として存在することになる。


長崎の潜伏キリシタンの存在が知られるのは、幕末の日本に来訪してフランス寺(大浦天主堂)を建てたプチジャン神父と出会う1865年(元治二年)である。