「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産に申請され、現在はその登録待ちである。
地元では、期待と困惑が交錯する。

期待するのは、行政や経済界。
困惑しているのは、教会(対象教会の小教区)や、近隣の人たち。

ということらしい。

中通島で世界遺産申請されている教会は、頭ケ島教会だけということが、そもそも少し不思議な感じがする。

中通島は、五島列島で最も教会が多い島で、充分に世界遺産となりうる佇まいのある文化財教会は、何も頭ケ島教会だけではないのである。

本来なら世界遺産の登録は大変誇らしい事なのだが、そのことに伴って環境が激変することは容易に想像がつく。
申請が絞られている背景には、もしかしたら教会(小教区)のほうに、あまり登録に積極的にはなりたくないような気持ち?本音?があってその意向が反映されているのかもしれない。

現在は聖堂としては使用していないような教会(建物)ならば、文化遺産としてキチンと現状保存できるようにすればいいのでまだいい。
しかし聖櫃があり聖体ランプが光っているような現役の教会(聖堂)の場合は、やはり神聖さを保たなければならない静かな祈りの場所に、ひっきりなしに観光客が訪れて出入りするような状態というのは、地元の信徒の方々にとっては大変キツい・・・
「物見遊山の観光客はご遠慮したい。祈る人が来て欲しい」と信徒が感じているとしても心情的には自然なところだ。

とはいえ中通島では、島で唯一の世界遺産登録候補として、既に頭ケ島教会が選出された。
鉄川与助さんの建てた教会のなかでも数少ない石造り教会で、どこか可愛らしさを感じるような趣きがある教会。
頭ケ島教会遠景
決して大きな教会ではなく、小さな巡回教会で信徒数も世帯数で20世帯ぐらいと聞いた。
世界遺産登録は、この宝石のような小さな祈りの家へ、今後、大量の観光客が訪れる。
マナーについての簡単な掲示はあるが、観光客の方々にマナーを求めても、教会の事を全く知らない観光客にとっては聖櫃がどういうところかという事まではわからない。
そういう観光客がどんどん聖堂に入る・・・
聖堂は無人の状態が多いし、神経質な私は、こういう状態がやはり気になるのである

教会というところは、全ての人に開かれているのが前提だから「観光目的の訪問はお断り」とは言えないし、物見遊山の訪問でも、訪問後になんらかの心の変化が起きるかもしれないというところが難しい。

観光、見物、見学、拝観、参拝、巡礼・・・

それぞれに言葉の定義はあると思うが線引きは難しい。

とはいえ、祈りの家、聖域としての神聖さ静謐さや、僅か20世帯の祈りの共同体の平穏を守る必要もやはりある。
なんらかの工夫を、考えなければいけないと思う。


カトリック教会の長崎教区は、長崎の教会への訪問者への受入れ対応として、NPO法人長崎巡礼センターという窓口を、既に設けている。

やはり「建物を見たい」という目的の訪問は、この長崎巡礼センターのガイドの同行を訪問の条件とするという様な制限が、対策としてあってもいいのかもしれない。

巡礼センターのキャパシティに限界があるとしたら、地元の教会の事情に精通しているタクシー会社の案内でもいいと思う。
教会をよく知らない観光客が、ガイド無しで単独で出入りするよりもはるかにいい。
私たちの訪問はタクシーの運転手さんのガイドだったが、教会群がある文化背景、建築的なポイントだけでなく、カトリック教会の事(例えば聖体ランプの意味など)も大変よくご存知だった。
郷土の遺産として、教会群を愛してくださっているという気持ちも伝わって信頼感があった。
さりげなく教会訪問の心得を伝えてくださると思う。

訪問可能な時間や曜日を限定し訪問時間を制限するということがあって良い。
いまでもミサの時間は訪問をご遠慮しているのだから・・・

観光、巡礼、教会の平穏。それぞれにうまくバランスをとれるような対応策が図られることを願いたい。


とここまで書いて、何か私の場合は、「教会の状況が変わってしまう」ことがあると、敏感に反応し、すぐそちらに視点が移ってしまうということに気づいてしまった。

典礼の改変が続き、多くの事が安定せず定まらない日本のカトリック教会の現状へのストレスで、おそらくこれは私のクセになってしまっている見方なのだろう・・・