また晴佐久神父の話になるが、「教会の外に救いなし」という言葉の解釈を「救いのあるところが教会」と言葉を逆転させて話されているのを聞いたことがある。
(記憶があいまいだが、確かネットの「俗は聖の器」の講話だったと思う http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110726)

一言でズバッと切る晴佐久神父の歯切れの良さを実感した講話だったが、この言葉は、私にとって「教会」を求める旅を促す言葉になっている。


ボンクリであった私が、かつて全く教会に足を向けなかった時期があることは、このブログでも何回も書いた。

毎日歯を磨くように毎週日曜日にはミサに与るというのは、そのこと自体は信仰の土台を固めるということではとても大事なことだと思う。

しかし信徒数が極端に少なくキリスト教が浸透しているとはいいがたい日本という国では、生活習慣だけでは信仰が持続しないということを私は自分の人生経験によって体感している。

やはり「教会に対して救いを求める気持ち」がないと駄目なのだろう。


晴佐久神父は「ミサには完璧な救いがある」とも言う。 

私が、晴佐久神父に共感するのは、おそらくこの教えによって教会というところに希望を持つ事ができるからだ。


しかし・・・

自分では「ミサに救いを見出す感性」を磨いているつもりでも、現実には実感を伴わない事がどうしてもある。


やはり第二ヴァチカン公会議以降、あまりにも多くのミサ典礼の改革が行われ、日本でのミサは変わり過ぎた。

いや、進行形でまだまだ変わり続けている。今年もまた、年末の待降節から「跪き」が全廃されようとしているのである。   

私には、その変化の先にあるものが全く見えないし、わからない。
目的が曖昧なまま、ただ彷徨っているようにしか見えない。


ミサ典礼が次々に変わろうが惑わされずに順応でき、改革に積極的に関わって教会を「現代的?」にどんどん変えたいと思う信徒はストレスも無いだろうから、それでもいいだろう。
そういう信徒が小教区の主軸になって、教会(小教区)はさらに変わっていく。

取り残される私は、心の中で違和感と空虚感が広がっていくだけだ。

今はもう、そういう積極的改革順応教会には見切りをつけ「比べてみれば」というレベルでほんの少しでも良いところが残っている教会(小教区)のミサに与るだけ・・・ 

日常の主日ミサでは、小さくささやか救いを求め彷徨い続ける。

果たして、まだ脱落せずにやっていけるか、以前のように厭気がさしてしまうのか・・・

瀬戸際での喘ぎというところだろうか・・・


ただし、以前私が教会から脱落してしまった時とは、大きく違っている事が一つある。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)が認められて、この日本でも、東京で毎月定期的にミサが行われているという点だ。

皮肉な事に、通常形式のミサが変われば変わるほど、特別形式ミサの煌めきが増していく。

たとえ何ヶ月に一回であっても、強烈な煌めきを発するこの不変のミサに与れる事は、永遠で普遍の神秘に誘なわれるようで、大きな心の支えであり心の救いだ。

ミサに救いを得られる実感」というものは人それぞれだろうが、私の希望の場所はここに一つあるのだろう。

冒頭の晴佐久神父の「救いのあるところが教会」という言葉を、私にとって現実のものとしてくれる「サンクチュアリ」は、存在している。

もちろん、東京の特別形式ミサだけではなく「サンクチュアリ」はまだまだあると信じている。