拙ブログのリンク集に新たに登録させていただいた「護教の盾」さんのブログをご紹介したい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htm

「護教の盾」さんは、聖体拝領のときに「跪いて」拝領しようとしたところ、司祭から聖体授与を拒否されたという経験を持つ。
不当で理不尽な仕打ちにめげず、直接、司教(教区長)に訴え、その結果「教区内ではどこの教会でも跪いて聖体拝領を受けられる許可」をもらったという逸話の人物。

その情熱と信念、行動力は素晴らしい。

大変研究熱心で、バチカンの文書や各国のカトリック教会の関連記事を
引用したうえで考証し、ご自身の考えを述べている。

「護教の盾」ブログは、「聖体拝領時の跪き」等の典礼関連のカテゴリーの内容で、共感する部分がとても多い。

引用記事で、名誉教皇ベネディクト16世のラティンガー枢機卿時代の「典礼の精神」という書籍の引用記事があった。

日本のカトリック教会において、とても重要な内容なので、拙ブログでもご紹介したいと思う。

他にも、学ばされる記事の紹介が大変多い。
詳しくは「護教の盾」ブログをご参照いただきたい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htm

以下引用
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少なからぬ影響力を持つグループが、私たちに「ひざまずく」ことを止めさせようと試みてきます。
「私たちの文化に合わない」と言います(一体、どの文化に?)。
「まっすぐに立って、神に向かって歩く成人には似つかわしくない」あるいは、「救われた人はキリストによって自由となり、もはやひざまずく必要がないので、ふさわしくない」と言います。(中略)

(しかし)実際、キリスト者の「ひざまずき」は、すでに成立していた何らかの慣習を文化受容した一形式ではなく、それとは全く反対に、キリスト教文化の表現であり、それまでの文化を、神についての新しく深い認識と体験によって変容させるものです。
「ひざまずく」ことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書と聖書が伝える神の認識からきたものです。
pp.200-201
砂漠の教父たちの教えに由来する物語があります。
それによると、アポロンとかいう修道院長の前に、悪魔が神に強いられて姿を現したとき、その容姿は黒く、 おぞましく見え、恐ろしいほどやせた肢体を持ち、そしてとりわけ悪魔にはひざがなかったのです。
ひざまずくことができないのは、あからさまに悪魔の本性と して著されています。(中略)

ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。
その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前では ひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。
信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。
ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。
それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。
p.210
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このメッセージから、核心にあるポイントを、さらに抜粋すれば
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信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。

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のところだろうか。