晴佐久神父の説教が魅力に溢れているという事は、説教集が本になり評判にもなっているし、拙ブログでもリンクさせてもらっている「福音の村」ブログ http://www.fukuinnomura.com/ を読んでもらえたら、共感する人も多いと思う。

洗礼を授けた人が、積み重ねで850人を超えているらしい。

目に見える「実績」が、「優れた宣教者」証明になっていると言っていい。

しかし、晴佐久神父の傑出しているところは、実はそれだけではないと私は思っている。

「優れた宣教者」の魅力に加えて、あと二点。


ひとつは、神父としての一番基本的な役割で、教会(小教区)という共同体で最も期待される、「良き司牧者」であるということ。

この司牧者としての魅力は、現実の多摩教会の姿が証明する。

晴佐久神父という人が、おそらく「具体的な行動で実践してかたちにして示す人」なのだろう。 
霊的指導というものが、多摩教会の姿に現れているように感じるのである。

ホームページにもその片鱗はあるが、実際に訪ねたら、活き活きとしている様や新しい人をお招きしてもてなす姿勢というものが、インフォメーション、心地良さそうな歓談スペースなど随所に現れている。 聖堂に連なるエントランスに受付係がいるという教会(小教区)も、他に見た事がない。全体的に教会もキレイだ。
「お客さんに来てもらいたい」という気持ちの現れだろうか? 

「ミシュランに教会部門があるとしたら三ツ星を目指したい」というジョークが晴佐久神父のエッセイにあった。

良い宿、良いレストランかどうかは一泊、一食すればわかるように、良い教会もまた、一度訪ねれば、わかることも多いかもしれない。

要は「教会が『常に新しい人を迎える』という、社会に対し開かれた姿勢」に満ちているということだ。

晴佐久神父は、「居心地の良さ」という表現をしていた様に思う。
意味的には「ホスピタリティ」「おもてなし」という言葉でもいいかもしれない。

初めて来た人にも、所属している人にも「居心地の良い」ところ。

自然に人が集まるという事に、あたりまえの理がある。

私の場合も実際に、第一印象がイマイチで、掲示物と配布物が散らかっているような「汚ないな〜」と感じた教会は、いつの間にか御縁が無くなっている。
こういう教会に限って、お題目だけは「開かれた教会」とか言って、アホなイベントで聖堂を使っていたりするのである。

「居心地の良さ」という事は一面的な事にすぎず、それで司牧者としての全てを語るのは無理があるとか、本質的な事ではなく表面的な事と思う人もいるかもしれないが、司牧の結果のひとつの「現れ」であると私は受け止めたい。

おそらく「究極に『居心地の良い』ところは、天国」ということを、晴佐久神父は言いたいのだろう。


最後はミサという祭儀を行う「祭司」としての魅力。

晴佐久神父のミサは、説教のインパクトが強いのでそちらのほうが話題になりやすいのだが、実は大変丁寧な司式で、これもかなり印象的なのである。

一言一句、一挙手一投足の全てに想いがこもっているような・・・

そしてミサの入祭のときに十字架と祭壇へする一礼が本当に長い。

20秒ぐらいは礼をしたまま・・・

この所作で、ミサに与る全員の集中力が高まる。

丁寧な動きと静かな間。 

私の所属教会では「どんなミサでも自然と気持ちが引き込まれる」という具合には、なかなかならない。
秘跡の有効性は変わらなくても、淡々とこなすような進行に感じるミサも少なくない。
私の方が、かなり意識してモチベーションと集中力を高めて緊張感を保つ事が必要な場合も多いのである。

仮に、説教が下手で司牧がちゃんとできていなくても、この丁寧なミサに与れるだけでもよいと思ってしまうぐらい・・・



「優れた宣教者」 「良き司牧者」 「祭司」どの面でも傑出している。

多摩教会の信徒は、かなり幸せと言えるかもしれない。

正直な話、独り占めはズルい。

晴佐久神父は、もはや突出して凄い神父になってきているのかもしれず、もしかしたら教会(教区)はもっと大きな役割を与えることになるのかもしれない。