以前、NHKの「心の時代」という番組で、淀川キリスト教病院でホスピス医をなさっていた柏木哲夫さんの対談番組を観たことがあったのだが、とても良い話だったので今でも印象に残っている。

というか、現在、私が抱えている大きな悩み事の一つに直結している話なので、印象も継続しているのかもしれない。

それ以来、ホスピスのことが気になっていて、聖ヨハネ会桜町病院のホスピス立ち上げにかかわられた山崎章郎さんが書かれた「家で死ぬということ」という本を読んだ。

前半は、「聖ヨハネホスピス」の話。

ホスピスとはどういうところか?
緩和ケアとはどうあるべきか?
「尊厳をもって迎えられる死」のための治療、ケアの在り方が、具体的な事例で示され、もしかしたらというか、いつかは患者になる可能性がある側の人間の1人として「死に支度」のための情報として、とても参考になった。

施設も素晴しい。

http://www.seiyohanekai.or.jp/sakuramachi-hp/shospice.html

ホームページでわかる、目に見えるアメニティの良さ、施設の素晴しさは、外面がいいということだけではない。

「緩和ケアとはこういうものだ」という考え方、理念を、具現化するものであり、患者への心配りのひとつとして目に見える形で現れていると見るべきであろう。


しかしホスピスという施設は末期ガンの緩和ケアを対象にしているため入院者は限定される。
このことは極めて悩ましい。

ホスピスケアの考え方を、あらゆる人の終末期医療の普遍的な姿にするために、山崎さんは在宅ターミナルケアの為の在宅医を始められた。

その話が、後半の話になる。

「自立(自律)と尊厳を守るためのターミナルケア」ということを模索し、日々奮闘し続ける姿に頭が下がる。

私たちは患者の立場になっていくわけだが、自らのターミナルケアに関するエンディングノートを、書き残すことが、残される家族や医療介護従事者の苦労を取り除くための最低限で最上の方法と思い始めた。

認知症末期になってしまうと本人の意思確認ができないからだ。

ターミナルケアにおいて、AHN(又はANH。人工的な水分栄養補給 胃瘻などをさす。)差し控えの是非で家族や医師を大変悩ませることになる。

特に救急搬送される場合は救命最優先で、意思確認無しにAHNが始められることが多いらしい。

認知症患者の場合は、AHNが外れない(患者が外そうとすることを回避する)ために、手首の拘束を行うことがある。というより、そういう処置を行う状況を極めて招きやすい。

延命をすることができても、僅かに体を動かすことまでも制限される状況が、本人の尊厳を守っていることになるのかどうか・・・

一度始めたAHNを止めるか否かということは、大変悩ましく重い問題である。

「AHNをしない自然死か」「AHNを行い続けるか」終末期医療の現場では、どちらかの死にかたを選ばなければならない。

極めて老衰死を迎えにくい時代になってきている。

そういう意味でも、柏木哲夫さんが言われるように「一年に一回、誕生日に自分の死を考える。」必要があるのである。