前々回「クオリア」の話に絡んで

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」(マルコ福音書第5章)

という箇所を例にあげました。

少し控えめな感じが日本人的で、心のDNAというか琴線に触れる感じがしますが、マルコ福音書第5章のこの箇所に、私はとても共感します。

人生を振り返れば、自分も同じような心境になったことが、何回もあるからです。

自分の力ではどうしようもない時。必死で神様を求める。

聖書では、触れた瞬間に、 「病気が治ったと感じ」そしてキリストも「私の服に触れたのはだれか」と気づきます。

苦しむ人が「気づいてもらった」ことによって苦しみから解放される。

奇跡とは「感じる」「気づく」ことで奇跡とわかるということなのかもしれません。

「気づく」という意味では「エマオの晩餐」も 「二人の目が開きそれがイエズスであったと悟った」(ルカ福音書24章)という記述なので、やはり「気づき」です。

エマオの晩餐


「しるしに気づく」ということが、クオリアの作用と考えるならば、ミサに荘厳さを望んだり、神秘的なところに気持ちが引っぱられるのも「しるしに気づきたい」気持ちのあらわれなのかもしれません。

はたして私に「しるしに気づく」クオリアがあるのか?

いやあるはずなのだが、「『しるしに気づく』クオリアが私にもある」ということに気づいていないのか???

「神様を感じる」ということに少し信仰の重心があるのも、少しアニミズム的というか、これまた日本人的な宗教観なのでしょうか?

なんだか自分でもよくわかりませんが、最近、私の興味関心はこのことになってきました・・・