クオリアについては、茂木健一郎さんが既にいろいろ書かれていて、世間での関心事に、いま私も巻き込まれたということがわかりました。

「体と心」「脳と心」の話は「心脳問題」というみたいですが、やはり面白い!

ハマってしまうと本を何冊も買いたくなってしまうので出費的には危険な興味です(笑)

素人向けに比較的わかりやすい本を書かれている茂木さんの本ですら一冊も読んでいないなかで、全く知見もないのに、クオリアについてブログでテーマアップしてしまった・・・
観てもいない映画の感想を述べるような暴挙をしてしまっていますが、個人の日記のブログということで、どうぞ許してください(汗)

「心脳問題」で面白いと思うポイントは、「心は脳が生み出している」という説と「脳の器官の中に【自己意識の座】【意識の中枢】【思惟の主体】【情動の主体】つまり心が見つからない」という対極の説が、結論づけられないために並立しているところです。

やはり「心とは何か?」ということを解明しようとすることは大変難しいということなのでしょう。

それでも、いまこうしてブログを書いている「私」があり「心」があります。
ただし「心」が何なのか、どこにあるのかがわからない。

クオリアが面白いと思ったのは「質感」という表現で説明されたりするから「可視世界と自己意識の中枢である心の世界」をつなぐ接点のようなイメージがあるからなんでしょうね。

「心の世界へのドアのノブ」みたいな感じでしょうか?
(妄想をふくらませて果たしてこんなことまでイメージで語って良いのやら・・・)

もう少し具体的にクオリアをイメージしてみます。
例えば運動会でグランドにちらばった児童のなかから、我が子を探し当てたときの瞬間というのはどうか。
自分にとって意味をもたない情報の識別は大変苦労しますが「我が子の顔」は選別抽出できたりするんです。
見つかった瞬間の「いたあー!」と嬉しくなるような感覚。もしかしてそういう感じも「クオリア」?

それとも「質感」というぐらいだから、「触覚」で考えたほうがわかりやすいだろうか?

そういうことでは、聖書では「触れる」話がけっこう多く書かれているような。

前回引用のヨハネ福音書20章は、まさに「神に触れる」話でした。
傷跡に触れた瞬間、トマスは「我が主よ我が神よ」とキリストを賛美します。
トマスは何を感じたのでしょうか?
事実の確証を得るというだけではない「神に触れる」神秘さを感じます。
このヨハネ福音書20章には有名な「ノリ・メ・タンゲレ( 我に触れるな)」という箇所もありますが、バルバロ訳では「私を引き止めるな」になってますね。

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」「私の服に触れたのはだれか?」(マルコ福音書第5章)というのもあります。

もしかして聖書は「触れる」クオリアだらけ???

バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画「天地創造」も人祖アダムが神に触れようとする瞬間が描かれているんですよね。これはもう緊張感に溢れてます。

God2-Sistine_Chapel


カトリックのミサではどうか。

聖体奉挙で司祭が「聖体」に触れます。

聖体拝領で「聖体」を食べます。

聖体奉挙や聖体拝領を、視覚情報、触覚情報として脳で認識するだけじゃなくて、クオリア(質感)を感じて、【自己意識の座】【意識の中枢】【思惟の主体】【情動の主体】に届いているか?という事を意識する事がとても重要に感じてきました。

霊魂を信じることを前提にするならば、つまり脳に心はないのだから、視覚情報として脳で認識するだけでは心に届いていないわけです。

トリエント・ミサは、ラテン語なので難しいとされてますが(もちろんラテン語は難しいですが)「重要さを所作でわかりやすく示している」という見方もできます。

わかりやすさという点ではベネディクションも然りです。

聖体奉挙のときに跪くのも然りです。

聖体拝領のときに口で直接いただくのも然りです。
仮に手で拝領するならば、「神」に触れるという意識を持ち、おしいただく謙虚さをもってその感覚、クオリアを体感したほうが良いと思う。

そもそも「荘厳さ」というものが、クオリアを強める高めるためのものであったという事を理解しました。

私が「バンドミサで離れ、トリエントミサで立帰った」理由を、今ようやく納得した。

クオリアの話がなんか局部的な事象に集中してしまいました・・・・

ところで
「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」

ってここの箇所いいですね。ほんとにいい・・・