3月4月は復活祭(イースター)の季節で、復活祭前の約40日間をカトリック教会では四旬節と呼んでいます。

この四旬節のときに「赦しの秘跡」(世間でいうところの、いわゆる「懺悔」)を受けることが、カトリック教会の信者の努めになっています。

カトリックでは「懺悔」という言い方はしません。
Wikipeを見たら聖公会が「懺悔」みたいですね。

昔は「告解」という言い方をしていました。
「赦しの秘跡」という言い方に変わりましたが、今でも「告解」でかなり通じます。

私の所属小教区は、なぜか「告解室がない。四旬節の黙想会でも告解の時間はない。」という教会なので、今年もまた別の教会に行って「赦しの秘跡(告解)」に与ることにしました。

告解室というのは1人がやっと入れるほどの小さい小部屋で格子窓があり「赦しの秘跡(告解)」は、その格子窓越しに隣の部屋にいる司祭に罪の告白をします。

以前、司祭と直接対面しながら行ったこともありました。
カウンセリングを受けるわけではないので、とてもやりにくかった。

告解室での「赦しの秘跡(告解)」というのは儀式めいていると思う人もいるかもしれませんが、司祭と直接対面しながら行うより、はるかに落ち着いて罪の告白を行うことができるような気がします。

罪の告白の後に「悔い改めの祈り」を唱えます。

「わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。」のところで言葉に詰まる・・・

「洗い清めてください。」という言葉が、自分のみじめな気持ちと一緒で、自分自身の言葉のようだった。

そして最後に司祭から「あなたの罪を許します。安心して行きなさい」という言葉をもらって告解室を出ます。

「安心してください」だったか? 聞き間違え?

いや頭の中には「安心して行きなさい」という言葉が残ってる。

【ルカによる福音第7章50節】にあるキリスト御自身の言葉です。

「安心して行きなさい」という言葉に、手触りみたいな感じを覚えました。

赦される喜びというのは、生まれ変わった喜び、というか、罪が全て消えた開放感というか、なかなか表現できず陳腐な言葉になってしまうけど、例えることのできない大きな喜びです。

教会の外に出た時、暗い告解室と明るい屋外の明暗の対比があってだとは思いますがとても眩しかった。

苦手ですが「赦しの秘跡(告解)」は、やはり大事です。


ところで「悔い改めの祈り」についてはいろいろな種類があるようですが「わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。」【詩篇第51篇(50)】です。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)の灌水式で「ASPERGES ME, Domine, Hyssopo, et mundabor: lavabisme, et super nivem dealbabor.(主よ、ヒソプもて私にそそぎ給え、私は浄められるであろう。私を洗い給え、私は雪よりも白くなるであろう。)」というのがあるのですが、【詩篇第51篇(50)】を今回バルバロ聖書で読みなおして、これもまた【詩篇第51篇(50)】だったということがわかりました。

意味もわからず聴いていたことが、何だったのかということがわかったこともささやかな喜びでした。