そろそろこの一年を終えようとしていますので振り返ってみようと思いますが、それなりにやはりいろいろあった一年でした。

カトリック的には、やはり教皇の交代。
寂しさと期待感が交錯した一年。

拙ブログもアレコレと興味のおもむくままに書き連ねてきましたが、印象に残ったことをピックアップしていくと
「晴佐久神父」「生きてきたように死んで行く」のあたりが、特に気持ちが盛上がっていたような気がします。

いただいたコメントで教えていただくことも、かなりありました。
いろいろなコメント。どうも大変ありがとうございました。

しかし自分のブログを客観視するとアラが目立つ。
少しつかみどころがなくなってきたというか・・・

例えば、どちらかといえばあまり型にはまらないタイプの晴佐久神父がテーマアップされていたかと思えば、今度は伝統的な典礼についてのテーマが続いていたりするわけです。

少し方向性がわかりにくいものになっているのかもしれません。

ネットでは、カトリックについてのブログもいろいろありますが、知見の豊かさやピュアな信仰心が溢れ出ているようなブログに出合うと、拙ブログの存在意義を自分でも疑問に思い始めたり・・・

このブログも4年半ほど続きましたが、そろそろ潮時かもしれないなんてこともやはり思います。


ところで話は変わりますが、
昨夜、一日早く「聖家族の祝日」ミサに与ったのですが、フィリピン人の神父様のとてもいい説教を聞くことができました。

現代においては「家族」というものが危機に瀕している。
「聖家族」が大切にしてきた教会の教えを再認識する必要がある。
わかりやすい放蕩息子のたとえ話も「個人の欲望」→「家族を放棄」→「絶望」→「家族に立帰る」話でもある・・・


ミサの前後が慌ただしくて、少しボーとして聞いていて、このくらいのエッセンスしか頭に残っていないのですが、年末にいい話が聞けて良かった!

最近のカトリック教会では「貧困」がキーワードのような感じがしますが、先進国でも途上国でも「貧困」の問題は、家族と離れたり切り離されたりした状態で、より深刻な問題になるような気がします。
「貧困」は「家族」の問題でもあるのかもしれません。

私が晴佐久神父が好きなのも、「家族愛」が話の軸にあることが多いからなんですよね。
福音の村(http://www.fukuinnomura.com/?page_id=4992)の説教で「教会家族でお葬式」という話が、あったんですが、この話は本当にいい話だった。

またまた話が変わりますが
そういえば、晴佐久神父のネット講話「俗の中の聖」という話も印象に残りました。

形あるものにこだわりすぎる自分自身の信仰に「俗っぽさを垣間みる」ような気がする事もあるのですが、暗愚で俗な信仰ではダメだとはどうしても思えない。

「大聖堂のステンドグラスを仰ぎ見るような中世の農奴の信仰でいい!!」
もう開き直り・・・(笑)

そういうことで、アレコレと話があちこちに跳びながら、本年のブログはこの回で終了させていただきます。

お読みいただいている皆様、どうぞ良いお正月をお過ごしください。