「いのフェス」というイベントで、晴佐久神父と社会学者の宮台真司さんの対談がありました。
その対談が youtube でアップされてます。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=SgvbysxCb2o
https://www.youtube.com/watch?v=dNICTl652Rk

実際に行かなくても(行けなくても)、いとも簡単に動画で見ることができる。
何かと文句を言うことの多い世の中ですが、便利さということではありがたい世の中でもあります。

対談は「普遍性」についての話が多かったですが、このあたりは想像の範疇。
晴佐久神父のいつもの話を、本ではなく動画で観れて聴けたのはやはりよかった。

ただし今回、この対談でちょっと印象に残ったのは、(新鮮ということもあってだと思いますが)対談相手の宮台さんが話した、現代社会における「『恨み』のエネルギー」の強さということについてでした。

あらためて「恨み」という事について考えさせられた感じ。
「恨み」というのは「許し」の対極にある感情だし、文字で「恨み」という字を見ると、ほとんどの人はあまり肯定したくない心の動きだと思います。

しかし・・・

例えば、私も「半沢直樹」を観てましたが、「半沢直樹」はどう見ても「正義」というより「復讐」「報復」の話なんですよね。

大ヒットですよね・・・

私も含め多くの人々が、実は「復讐」「報復」が好きなんでしょうか?

ドラマ仕立てになっていると、弱者の「仇討ち」には、拍手喝采するんですよね・・・

現代の「仇討ち」は、相手を平伏させることみたいです。

マスメディアの報道姿勢を見ていても、「恨み」を増幅させたり、「正義」にすりかえ批判のかたちで「報復」を正当化しているように感じることもあります。
なにか「恨み」の怨念をエネルギーとして原動力にしているような・・・

「恨み」というより「嫉妬」の場合もあるのかな?
いずれにしてもネガティブな感情・・・

しかしこれは自分の胸に手を当てて考えても、無いとは言えない感じ。充分に注意しないといけない。

どちらかというとサヨク的な思考に、この「恨み」の怨念が混入しやすいと思います。やはり階級闘争が思考のベースにあるからでしょうか。

もちろんサヨクに限ってということではない。中国や韓国のナショナリズムには「恨み」の怨念が充満してます。

ただし「恨み」をエネルギーの原動力にしている限りは「平和」はないということだけはわかります。

カトリックに限らず、クリスチャンの場合ですが、社会問題に目を向けるあまりサヨク的階級闘争的な「恨み」の怨念みたいなものに警戒心がない無防備な人が少なくない感じがします。

社会への問題意識に「恨み」がないかどうか、よくよく考える、自問自答することが必要。

もちろん「痛み」に寄り添うことに目を背けるわけじゃない。
しかし「恨み」を超えていかないと・・・

人間というのは、(私のことも大いに含めて)やはり未熟な生き物なんですね・・・