何故、晴佐久神父に惹かれるのか?

前回の締めくくりで「晴佐久神父は、現代の日本の教会が失ったものを持っていると共に、持ってないものも持っている」と結んだわけですが、それでは「持ってないものを持っている」とは何か?
「晴佐久神父以外が持っていない」というのは言葉が滑りすぎですね。

「晴佐久神父が突出して持っているもの」という書き方がいいかもしれません。

「日本の教会が、現代の言葉でキリスト教を語れていないのかも」ということを書きましたが、これも本質ではなかったような・・・

確かに晴佐久神父は「話題の豊かさ話術の巧みさ」を持っているというのはある。

ただそれだけじゃない・・・
もっと大事な事・・・

やはり晴佐久神父の話には「心の救済がある」「救いがある」ということなんじゃないか・・・

自殺者は、旧社会主義国や日本、韓国が高いそうです。
日本は5位。韓国は1位。

鬱病の人も日本は多い。

鬱病にならないまでも、ストレスに苦しむ人はとても多いですよね。
やはり日本は高ストレス社会です。

この日本における「心を病む人」「苦しむ人」に対して、晴佐久神父はやはりキチンと向き合っている感じがします。

まさに福音を宣言する事で救おうとしている・・・

「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。」
(マテオ11-28)ですよね。

受洗者が6年間で541人という数字が証明していますし、この数字が「(たとえ受洗しなくても)『救われた』と思う人」の多さを暗示してます。

脱原発とか憲法9条改正反対とか、そういうんじゃなくて、日本の教会が、一番向き合わなければならないのは、多くの苦しむ人の心の救済じゃないのか・・・

脱原発を訴えても憲法9条改正反対しても、心は救済されない。
心苦しむ人にとってそんな話は、ハッキリ言ってノイズです。

「脱原発、憲法9条改正反対は、元気な人が外で勝手にやってくれ!」という感じ・・・

教会では、もっと心を救う話をしてほしい・・・

福音宣教ってそういう事じゃないのか?

第二第三の晴佐久神父が登場してほしい。
変身してほしい。
立ち戻ってほしい。

晴佐久神父の受け売りでいいじゃないか。

そんなことを思っています。