「聖歌についての価値観と許容範囲をどう考えるか」ということでアレコレ考えましたが、私の場合、聖歌においては「価値観」も「許容範囲」も、とても感覚的であいまいなことに今回気づいてしまいました。

「なんとなくいいなあ」という状態で「価値観」と言ってしまうのは、ちょっとおこがましかった感じ。

しかし「価値観」というのは、もともとあいまいな言葉だったりして・・・

結婚なんかがそうですが「価値観が一致」という言葉と共に人生を共にしてしまったりするわけですが、実は「価値観」という言葉でさらっと流さないほうがいいんでしょうね。
「人生観」とか「家族観」とか「金銭観」とか「社会観」とか「国家観」とかっていう具合にもう一段階踏み込んだほうがいい。
結婚するとき「『家族観』が違うけど『金銭観』はいっしょ」というのでは、実はマズかったりするわけです。

書き出しにしょうもない話を書いてしまいましたが、実はこのところのニュースで、この価値観うんぬんということに対して世俗の政治の世界で起きようとしている変化に対しても似たような構図を感じてしまいました。

何の事か?

石原新党というか、第三極というか、新しい政治勢力の結集についてのことです。

知事を辞めた石原さんが「価値観がいっしょであれば微妙な政策の違いは乗り越えられる」ということで、維新の会やみんなの党に結集を呼びかけています。

しかし原発、消費税増税の是非、憲法観など、あまりにも政策の違いが大きいんですよね。
呼びかけられた「維新の会」も「みんなの党」も「野合」と思われることに対し非常に敏感になっている感じがします。

そのうえ石原新党の母体となる「たちあがれ日本」のメンバーをみたら、なんか新鮮な感じがしないというか・・・
石原さんの政治的な立ち位置もあまりにも右過ぎると思うし・・・

「おそらく結集は無理かもなあ」となんとなく思ってしまう。

石原さんの言う「共通の価値観」というのは「中央集権的政治体制の打破」「統治機構の改革」ということのようですが、言葉だけ見ると憲法観などよりも上位概念とは思えないように一瞬感じてしまいます・・・

しかし・・・・・
日本の中央官僚による統治機構というのは大東亜戦争の終戦をもってしても変わらなかったといいます。憲法のほうは帝国憲法から民主憲法に変わっているのにです。

私は社会保険庁の年金記録問題のときから抜きさしがたい官僚機構に対する不信感を持っているので「統治機構の改革」ということに対しやはり非常に期待感を感じます。

改革じゃ生温い!「統治機構に対する革命」でもいいくらい!!

「明治以降の官僚支配体制を変える」というのは、実はもしかしたら改憲よりも実は上位概念なのかもしれません。

明治維新だって「攘夷」はどこかにいってしまって「倒幕」で結集したわけだし、西南戦争の西郷さんだって、自由民権派から封建秩序回帰派までいろいろだったといいます。

「野合でもいいじゃないの。変わるなら」


そんなことを思ってしまいました・・・

しかし自分じゃ保守派のつもりだったけど、実はラジカルな自分に気づいてしまって、今度は自分の政治的立ち位置でまたまた混乱中・・・