7月1日のミサの福音書朗読は、マルコ5-21でした。
ここは印象深いですね。

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」


新共同訳の口語の文章でも充分に印象に残りますが、ちょっと文語聖書で該当箇所を見てみました。

茲(ここ)に十二年血漏(ちろう)を患へる婦(おんな)ありて、曾て(かつて)數多(あまた)の醫師(いし)に係りて様々に苦しめられ、有(も)てるものを悉く(ことごとく)費したれど、何の効(かい)もなく、却て(かえって)益(ますます)惡しかりしに、イエズスの事を聞きしかば、雑沓の中を後より來りて、其(その)衣服に触れたり。
是(こ)は其衣服にだに触れなば癒ゆべし、と謂ひ居たればなり。
斯て(かく)出血忽(たちまち)歇(や)みて、婦は病の癒えたるを身に感じたり。イエズス直(ただち)に己より霊能の出でしを覚(さと)り給ひ、群衆を顧(かへり)みて、誰か我衣服に触れしぞ、と曰(のたま)ふや、と。弟子等(たち)云(い)ひけるは、群衆の汝に擠迫る(おしせまる)を見ながら猶(なほ)誰か我に触さわりしぞ、と日(のたま)ふや、と。イエズス之を為なしし人を見んとて視廻し給へば、婦は我が身に成りたる事を知りて、恐れ慄きつつ來り、御前に平伏して、具に(つぶさに)實(じつ)を告げたり。
イエズス是に曰(のたま)ひけるは、女よ、汝の信仰、汝を救へり、安んじて往け、汝の病癒えてあれかし。


いいですねえ!!
読むのは少し大変ですが、重厚でまるで別物。

口語訳があって内容はつかめているので、語感を味わうことに集中できまね。口語訳と文語訳は補完関係にある感じです。

文語は堅くて淡々とした情景描写になるのですが、その淡白さが逆に内容を浮き出させる感じがします。

遠藤周作さんの「沈黙」もエピローグの切支丹屋敷役人日記(文語)のところがとても印象的だったんですよね。