ちょっと最近マンネリ化傾向にあるので、以前の記事を更新したい。
(既読の方は申し訳ありません)

2012年6月の内容だが、
3年も経過しており、自分でも客観的に読めるのが面白い。
最近は文末を「です」「ます」でなく「だ」「である」にしているので合わせ修正した。

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「あの人は新興宗教にはしって・・・」あるいは「あの人は新興宗教にはまって・・・」という言葉で始まる会話は、宗教に対しあまりポジティブな会話にならない。
最近は「新興」がなくなって、単に「あの人は宗教にはまって」となっている場合もあるような・・・

なんか肯定的なニュアンスに乏しい・・・

オウム教のような例外はあるが、たいていの宗教の教義は社会的には、だいたいまともな倫理観道徳観であるのに不思議である。

「はしる」あるいは「はまる」というニュアンスには、「自分を見失っている」「他の事が目にうつっていない」「独善的」という感じで、なんか「宗教=カルト」というような見られ方なのか?

世の中、金銭的な豊かさで幸福感にひたるような世俗的な価値観が強くなっているし、啓蒙主義的な人間中心主義によって価値観もどんどん多様化している。
無神論的な傾向も相まって「特定の倫理観道徳観を押しつけられるのは疎ましい」という否定的な受け止め方をしてしまうのかもしれない。

もちろん、営利目的のかくれみのような宗教法人もあるし、のめり込んで財産を失ってしまったとか、そういう「お金がらみでだまされた」みたいな疑惑のまなざしはある感じ。

だいぶ前の事だが、エホバの証人の輸血拒否事件のとき、たまたまタクシーに乗って運転手さんと世間話をしていたら、「とにかく宗教が全て悪い!!」「諸悪の根源!!」とまで力説し始めて、その勢いの強さに「どうなんでしょうかねぇ・・・」としか言えずトホホ・・・な感じ(笑)になった思い出がある。

ただし、お地蔵さんの前で手を合わせている人や神社やお寺にお参りしている人をさして「あの人は宗教にはまって」とは言わない。いったいどういう状態のことを言うのだろうか。

「あの人は宗教にはまって」というのは、信仰を持つ人にとってネガティブワードで、なんともいやな言葉だが、客観視させられるところもあって、いろいろ考えていくといろんな事に気づきがある感じ。

ちょっとどういう展開になるかわからないが、シリーズで、少し駄文を書いていきたい。