ご復活おめでとうございます。

大震災があったため、キリストの受難と被害を受けた方々の被災とが、四旬節の期間中、心の中でずっと重なっていました。

震災のほうは、まだまだ進行形。先が見えない状態が続きますが、被災した方々と心を共にして歩んでいかなければならないと思います。

そして私の小教区の復活祭の御ミサ。こういう状況であることが相まってやはり気持ちが高揚します。
昨日の復活徹夜祭のミサも、今日の復活の主日のミサも、いい御ミサでした。
毎年少しずつですが、荘厳さが増しているように感じます。

ひさしぶりに、栄光の賛歌を唱って、以前「栄光の賛歌はいいなあ!」とコメントいただいたステパノ・アクラさんの事を思い出し、そして目の前で行われている洗礼式が、まるでステパノ・アクラさんの堅信式のように思えてきてジーンときてしまった。

そして、今日の御ミサで、奉納の少し前のとき「アヴェ・ベルムコルプス」がオルガンで伴奏された!!! 
これはまったく想定外でもう感無量・・・

受難と復活の意味をかみしめました。良かった・・・・・

ところで、今日の復活の主日のミサの「聖書と典礼」についてなのですが最後のページに、大阪教区の中川神父様の 「復活は喜びへの希望です」というコラムがありました
そのなかでわたしたちは復活を死体の蘇生と誤解しがちです」
と書いてあってちょっとひっかかった。
科学万能の現代にあっては、そう言ってしまったほうがスッキリしてしまうのかもしれませんが、「こんな身もフタもないことを書いてしまっていいの・・・」という感じがした。はたして断言するべき事なのか?

「私を見ずに信じる人は幸いである」で有名な聖書の一節、ヨハネによる福音-20章
最初は復活を信じなかった聖トマスが、復活したキリストに直面して「我が主よ。我が神よ。」と言うわけなのですが、この言葉は聖変化のときに唱えていいとされていますので「誤解しがちです」に釈然としなかった私は、今日のミサでは唱えることにしました。

エマオの晩餐
カラバッジョの「エマオの晩餐」
では、いままでと全く違う姿で復活したキリストの姿が生々しく描かれている。
姿の変わったキリストに全く気づかない宿屋の給仕のように、見えていない人がいるところが興味深いですよね。

肉体の目か心の目かはわかりませんが、弟子たちには、復活したキリストが確実に見えていた。

それでいいと思うんです。