いろいろな人物のプロフィールについて語られる場合、その人物がキリスト教の信者の場合は、なぜか「敬虔なクリスチャン」とか「敬虔なカトリック信者」とか、いちいち「敬虔な」という修飾語がつけられることが多い。
いままでもこれからもプロフィールを書いてもらえるようなことになることは、普通の庶民の私の場合は確実に無いけれども、仮にもしそういうことになったとしても「敬虔な」をつけられるとちょっと困る感じがする。
やはり自分の事を「敬虔な」とはとても思えない。
「いちおうカトリック」とか「実はカトリック」とか「家の宗教がカトリック」とかの方がしっくりくる。
このところ、ブログの更新がなかなか捗らないのも、どうも気持ちの根っこのところに、「気持ちが舞い上がることが時にあったとしても、日常を聖化するという地味で節制が必要なところでは全くゆるい」私が、カトリックをお題にブログを書いているということの疲れと恥ずかしさとが、頭にチラついてしまっているということもあるのかもしれない。
まもなく四旬節に入ろうとしている。
一年の中でも節制が必要な時で、自分のゆるさ加減を特に実感しやすい時でもあるけれども、日常という自然体の中で、ささやかにではあっても変化をつけることができればと思ったりもする。
いままでもこれからもプロフィールを書いてもらえるようなことになることは、普通の庶民の私の場合は確実に無いけれども、仮にもしそういうことになったとしても「敬虔な」をつけられるとちょっと困る感じがする。
やはり自分の事を「敬虔な」とはとても思えない。
「いちおうカトリック」とか「実はカトリック」とか「家の宗教がカトリック」とかの方がしっくりくる。
このところ、ブログの更新がなかなか捗らないのも、どうも気持ちの根っこのところに、「気持ちが舞い上がることが時にあったとしても、日常を聖化するという地味で節制が必要なところでは全くゆるい」私が、カトリックをお題にブログを書いているということの疲れと恥ずかしさとが、頭にチラついてしまっているということもあるのかもしれない。
まもなく四旬節に入ろうとしている。
一年の中でも節制が必要な時で、自分のゆるさ加減を特に実感しやすい時でもあるけれども、日常という自然体の中で、ささやかにではあっても変化をつけることができればと思ったりもする。