カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2017年11月

2015年2月に書いた内容ですが、想うことがあり更新したいと思います。
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「キリスト教のお葬式は、雰囲気に暗さがあまりがない。」と言われたことがある。 

聖歌や賛美歌を歌うからだろうか?

確かに聖歌や賛美歌は、お経よりは雰囲気が明るいかもしれない。 

もちろん「雰囲気に暗さがない」というのは「しめやかさに乏しい」ということになるのかもしれないから、どちらが良いか悪いかではなく、印象が人それぞれということだろう。

とにかく、仏教であれキリスト教であれ「次の世界へ送り出す」セレモニーがお葬式。

日常生活のうえでは「次の世界」というのはあまり考えないし、丹波哲郎さんみたいに具体的にイメージできる人というのも、あまりいないとは思う。

しかし自分や愛する人の死を迎える時は必ず来る。

「次の世界」の存在を否定して全く信じないというのも人生の選択かもしれないが、いざ死を直視しなければならなくなったときに、はたして心の平穏を保てるだろうか?
「怖さ」「むなしさ」「寂しさ」「別れの悲しさ」といったネガティブな感情が、どんどん膨らむのではないだろうか。

冒頭の「キリスト教のお葬式に、暗さがあまりがない。」という印象についての話は (聖歌や賛美歌はともかくとして) やはり キリスト教 信仰 に 「復活信仰」がある ことが影響しているような気がする。                      


キリスト教 における「復活」は、神であるイエズス・キリストの復活だけではない。

聖書のヨハネ福音書11章「 ラザロの復活」は、私たち人間の「復活」 の話だ。

「わたしは復活であり命である、私を信じる者は死んでも生きる。生きて私を信じてる者は 永遠に死なぬ。あなたはこのことを信じるか」

とイエズスは、ベタニアのラザロの死を前にして永遠の生命を宣言する。

しかしラザロの姉マルタは、墓の中のラザロを称して「主よ、もう四日も経っていますから臭くなっています」という、普通に想定される冷徹なありのままの現実を告げるのである。

目前の現実に奇跡が起きることを実感できないマルタは、我々現代人のようだ。

しかしイエズスは「もしあなたが信じるなら、神の光栄を見るだろう言ったではないか」と告げる。
そして「ラザロ外に出なさい」という言葉とともに、ラザロは「復活」した・・・

淀川キリスト教病院の医師であった柏木哲夫さんは、臨終の際に「じゃあ行ってくるね」と襖を開けて隣の部屋に移動するような感じで亡くなった看取りがあったということを伝えている。 

現代においても私たちの目には見えない「復活」は起きているのではなかろうか。 


しかし、死による別れは、やはりこの世での別れ。 

このヨハネ福音書11章では、ラザロの死により悲しむ人々と接して「イエズスは涙を流された」と書かれている。
受肉によりて人となり給もうたキリストは、現実世界での別れである私達の死に涙を流す神である。 

来住神父について検索していたら、「キリスト教は役に立つか」についてのキリスト新聞社のインタビュー記事が見つかった。

まず冒頭に「教会のなかで私もずっと孤独を感じてきました。」という話があって驚いてしまったが、今の日本のカトリック教会の状態を冷静に見て判断し、的確な課題提起をされていて、私は共感する部分がとても多かった。

こういう本音?をズバリ語る神父は決して多くはない。

このインタビュー記事を読んで、私は「こういう神父様を待っていた」という感じがした。
以下引用したい。

http://www.kirishin.com/2017/06/27/6888/

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本書の帯に「イエスの教えは『孤独』に効く」と書いていただきましたが、わたし自身も教会の中でずっと孤独を感じてきました。わたしが教会の現場に深く関われる人間だったら、そもそも本を書くようなことはしていないと思います。わたしはそういうことをしないのではなく、できないのです。

使徒言行録にあるパウロの宣教のように、人間がある方向へ進む場合、最初から「これが大事だ!」と行くというよりも、ある方向が行き詰まったので、やむを得ず別の道に行ってみたら宝があったという方が多いのではないでしょうか。

わたしは司祭になる前に製造業で働いていましたが、神父になりたかったというよりも、行き詰まった感じがありました。「このままではうまく行かないな」と思ってこちらに来た。でもいざ教会に入ってみたら、やはり教会の主流ではうまくやれず、また傍流へとずれ、気が付いたら周辺で本を書いていたという感じです。

書きながら気づいたのですが、『キリスト教は役に立つか』の中でわたしが本当に書きたかったことは、「ゆるいキリスト教」の再発見かもしれません。カトリック教会が高齢化で人数も減り、勢いが弱くなっているのと反比例するかのように、「キリスト者は世のため人のために働くべき」という文書が増えている印象があります。つまり「叱咤激励するキリスト教」です。

「福音」というのは「幸福の音信」であり、まずキリストを信じるようになった人が幸せになるという話だと思います。ところが「キリスト者たるもの、たとえ迫害を受けても人を幸せにするために刻苦精励しなければならない」と、倫理化されがちです。わたしは学生運動の時代を知る世代ですので、「君たちは第三世界の虐げられた民衆と連帯しないでいいのか! プチブル的幸福に安住しているのではないか!」という、あの恫喝的なアジを思い出してしまうのです。

もちろん、キリスト教は「世のため人のため」に尽くすはずのものだとは思います。しかしそれ以前に、信じた人が幸せにならなければならない。そこにいるあるがままの人をまず認めるというのが福音の始まりです。

イエスと1対1の関係を深めることそのものが信仰者の幸せ。「〜であるべき」という話はその後です。自分たちが幸せである根拠をもっと語り、確認していく。そしてそれを育てていくのが本来のあり方ではないかと。

社会正義に貢献する、モラリッシュなエネルギーを得るためにキリスト教徒になるわけではありません。イエス様と親しく話して、愚痴も聞いてもらえるようになれば、徐々に心が柔らかくなり、たまには善い行いもするかもしれません。

「愛は使えば使うほど増えるもの」と言う人がいますが、そう簡単に言ってほしくない。人は資質的にも、気力的にも体力的にも限界のある存在だと認めるのがキリスト教でしょう。信仰さえあれば何でもできるというのは、むしろグノーシス主義だと思います。

今日のカトリック教会はその傾向を持ちつつあると危惧します。それに対する不満が、この本を書かせた一つの理由かもしれません。

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来住神父の「目からウロコ ミサのあずかり方」に書かれている内容を、もう少し引用したい。

「なぜ、ミサに行くのか」という問いかけに対する率直な答えが書かれている。
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「行くこと自体に意味がある」

ミサに参加するのは、もちろん「神の恵みを受ける」ためです。
しかし、そのようにしか考えないと、ミサにかける時間と労力はやむを得ない支出ということになります。
本当は何もしないで恵みを得ることができれば、それがいちばんいい。
しかし、世の中にそんなうまい話はないから、ミサに行かなければならない。
ところが、神の恵みは、はっきりと目に見えるものではないのに、時間と労力は目に見えてかかる。
それで、「せっかくの休みなのに、どうもおっくうだな」ということになるのです。

ここで必要なのは、信仰が薄いと自分を責めることではなく、発想の転換です。
ミサは出席すること自体にすでに意味があるのです。
なぜなら、時間と労力をかけてミサに出かけて行って参加すること自体が、自分とキリストとの関係を表明し、確認することだからです。


「ミサ以外に何があるのか?」

キリストとの絆を確認するのはミサではなくてもいいのじゃないか、と言う人もあります。
そう言ってもいいかもしれません。
ただし「キリストとの絆を確認する堅固な場を、毎週、あなたが本当に設けることができるならば」です。

自分とキリストとの関係の確認の場として、信仰の兄弟姉妹が集い、神の言葉が読まれ、キリストの死と復活が記念されるミサ以上のものを考えることは決して容易ではありません。


「ミサに出かけていく」

自分に信仰があるのか、ないのか。座って自分の心の中を調べていても分からない。
立ち上がって、聖堂に向かって歩き出しなさい。
そうすれば、自分に信仰があることがわかるでしょう。


ミサに出かけていく時から、そのからだの動きによって、自分の中に信仰が息づいていることがわかる。信仰は静止したものではなく動きです。
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荘厳司教ミサがいよいよ来週になったが上記のような言葉をもらって東京までの道のりを進めることができるのは自分にとって、タイミングがちょうど良かった。

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