カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2017年03月

新しく祈祷書を買った。

個人的には公教会祈祷文に依存はしているのだが、現在の教会に所属していれば、やはり不便ではあって、共唱でも使える個人所有の祈祷書が欲しかった。

買ったのは「カトリック祈祷書 祈りの友」というカルメル会で使用している祈祷書で、カルメロ神父が編集されている。

この祈祷書が良いと思ったのは、口語の祈りだけでなく古い文語の祈りを「伝統的な祈り」として併記しているところだ。

巻頭言のところで、奥村一郎神父が次の言葉を寄せている。

以下引用
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(前略)
第二バチカン公会議後、あらゆる方面で教会も大きく変化しました。
それも新しいものが生み出されるというより、古いもののとりこわしが始まりました。
どんなことでも「とりこわし」は乱暴なもので、早いものです。
教会の中における「祈りの生活」もその例外ではありませんでした。
ミサの形式から祈祷書、その他ロザリオの祈りとか十字架の道行、聖体信心、免償など、かつては熱心に実行されていたものが、急速に忘れられ、すたれていきました。
現代の教会の危機のひとつとして「祈りの喪失」が挙げられるのもそのためです。
しかし「祈りの心」というのは、正しく解すれば「人間の心」と同意語であるはずです。
祈らないというのは死んだのと同然です。
(中略)
今の日本の教会では、なお文語を好まれるかたもあり、他方若い世代には口語体でなければ祈りになじめない人もいます。
したがってこの本では、文語体と口語体、古いものと新しいものを合わせながら、各自が好みに従って選べるようにしてあります。
どんな形、どんなことばにせよ、要は「祈る」こと自体が大切なのですから、祈りやすいようにという配慮からそのように編集されているわけです。
70年代は教会にとってもなお過渡期な時代でしたが、一応その間の成果を総括的にまとめ、80年代からの新しい聖霊の息吹きをまつ心の場をととのえてくれるために、この祈りの小冊子が役立ってくれますならば幸いに思います。

1980年2月 洛南にて                           奥村一郎
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教会の変化に対する奥村師の心情が垣間見えて興味深い。

奥村師が言われているとおりで、心配りがとてもきめ細かい祈祷書で、文語体と口語体併記というだけではなく、検索もとてもしやすい編集になっている。

初版は1980年だが、最新の第13版は、2011年改定の「聖母マリアへの祈り(アヴェマリアめぐみに満ちた方)」も載っている。

お祈りがし易いというだけではなく感心するのは、様々な聖人の祈りなど多彩なお祈りが載っているところで、ミッシェル・クオストという人の「神に聴くすべをしっているなら」という本から「主よ、時間はあります」という祈り?が紹介されていて、この文章が良かった。

「主よ、もしや、あなたの時間設定がまちがっていたのでは、どこか大きな狂いがあったのではありませんか?1時間が短すぎ、1日が短すぎ、一生が短すぎるのではありませんか」というようなドキッとすることを書きながら、最後に「あなたがわたしに下さった時間の中で、あなたがわたしにせよ、とおっしゃったことを、心静かに行うことのできる恵みをただそれだけを、あなたからいただきたいのです。」と結んでいる。 

こういう祈り?というか文章を挿入することも驚きだったが、その次にある祈りが、幼いイエスの聖テレジア「私のいのちはひととき」という言葉で始まる「今日の歌」という祈りになっていて、このような編集のセンスの良さもあって、ついついページをめくる祈祷書となっている。

このカルメル会の「祈りの友」は、サッと目を通しただけでも、直感的に良い感じがした。

もう14万5千部になっているらしい。

拙ブログをお読みいただいている皆様にも、是非オススメしたいが、もしかしたら既に持っておられる方も多いかも・・・

2045年問題、あるいはシンギュラリティという言葉が話題になっている。
人工知能(AI)が人間の知能を超えるというのが2045年らしい。
確かに、チェスや将棋の勝負では、名人でもコンピュータに負け始めているというニュースを耳にしたような気がするし、自動車の自動運転技術についての話題も増えた。

自動運転については、今年の秋にも高速道路でトラックによる社会実験があるらしい。
宅急便のヤマト運輸がAmazonの配送量の増加で業務オーバーになっているという直近の問題をふまえれば、自動化に適する高速道路での長距離輸送は自動運転に任せて、宅配の方に人員をシフトしていくというような事は思っている以上に早く進むような気もする。

医療の世界も劇的に変わると言われている。
外科手術のような職人的な技が活きる部分はともかくとして、診察などではビッグデータにつながることで大幅に診療の精度が高まることが期待されている。

AIに判断してもらった方が正確で正しい、あるいは効率も良く生産性も高いとなれば、いままで人間が担ってきた多くの仕事がAIへ移行していくことは避けることはできないような気もして、社会が根底から変わる予感がする。

裁判官のような法曹関係の仕事も、判例がビッグデータ化されることで、AI化が可能という説もある。

いくらビッグデータ化されても、それは無理だろうと思ったら、IBMのワトソンというAIは、ディープラーニングという手法で、インプットされた情報を自ら解析して判断を下すということを繰り返しながら、その経験の蓄積によって「学ぶ」らしい。

AIが、自ら学んで人間の知能を超えたとされたとき、はたしてAIのワトソンは、意思を持っているのか?意識があるのか?愛がわかるのか?心を持つのか?というところは気になるところだ。

「愛とはなんですか?あなたは愛を持ってますか?」とワトソンに問いかけたとき、なんと答えるのだろう。

やはり「わかりません。私にはありません」と答えるのか。

それとも、予想もしない答えをするのか?


スピルバーグの「A.I」という映画や「アンドリューndr114」「アイ,ロボット」といった、
心を持つ
AI(人型ロボット)を描いたSF映画は既にある。
どれも面白そうな映画だが、人間自身が「心はどこにあるのか?」という心脳問題に決着がつけられない(おそらく永遠に決着しない)なかで、先走って「AIも心を持つ」と結論づけているような気もする。

神の被造物である人間ですら 「塵にすぎないお前は塵に返る(創世記3章)という儚い存在であって、 その人間が創ったAIなのだから、いくら桁違いの知能を持つ存在となっても、やっぱり「心」は持てないじゃないかと、私はなんとなく思ってしまうが、果たしてAIのワトソン君はなんと答えるのだろうか?


先般、特別形式ミサがあったカトリック赤羽教会で、四旬節にあたり、3月の毎週金曜日の夕方にオープンチャーチというイベントが行なわれる。

以下 案内引用
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オープンチャーチのご案内
どなたでも自由に教会が見学できます。どうぞ聖堂にお入りください。 
◾️開催日
3月3日(金)
3月10日(金)
3月17日(金)
3月24日
(金)
3月31日
(金)
◾️オープン時間
16:00〜20:00まで

四旬節にあたり18時から十字架の道行きの祈りがあります。
主イエスの受難を黙想し感謝の祈りを捧げます。
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オープンキャンパスという言葉はよく聞くが、オープンチャーチという言葉はあまり聞かない。

本来、教会というところはどんな人にでも開かれたところだけれども、入っていいのかよくないのかが意外に判断がつきにくいという印象があるらしい。 
復活祭を前に、イベントとして告知して、一般の人にも教会に入るきっかけとしてもらうということなのだと思う。

赤羽教会は、都内では伝統様式の聖堂として突出した佇まいなので「中に入ってみたい」という素朴な好奇心を持つ人も少なくないだろう。
祈りの空間としての佇まいに、何かが印象に残り、心の片隅に記憶が残るようなことがあるかもしれない。
そういう想いを尊重し、あえてオープンチャーチと銘打って、入ってもらい易くするのは良いことだと思う。

成人洗礼の人の場合でも、最初に教会を訪ねる時は、何か敷居が高い印象があるそうだから、日本のカトリック信者数の少なさを思えば、敷居の高さ、気軽な接点が少なさということは課題だろう。

意を決して来ても、やはり入るのを諦めてしまうようではいけない。
「遠慮なくお入り下さい」というメッセージが背中を押す動機となる事があるような気がする。 



以下は、さしでがましいのだけれども、カトリック教会に一度も入った事が無い人むけに聖堂内のマナーについて少しふれたい。

気持ちの持ち方としては、やはり神社やお寺を参拝するときと同じく神聖な場所として意識して欲しいと思う。
建築鑑賞、美術鑑賞のような意識にはなると思うが、信者にとっては神聖な神の家で、ポイントを知って貰える事で意識の持ち方が変わることを期待したいからだ。

入り口に水が入った器があるがこれは聖水で、信者の場合は指先を清めて十字を切ってから聖堂に入る習慣がある。
神社を参拝する際に手水舎で、手と口をすすぎ清める作法にも似ているかもしれない。
長崎などの観光地の教会では、灰皿と勘違いしてタバコを消すために入れる人がいるらしい。
昨今ではくわえ煙草で歩く人も見かけなくなったが、神社の手水舎と同じようなものと思ってもらえたらいい。

祭壇周りは内陣と言って一段高くなっていて、そこは立ち入り禁止。
赤羽教会の場合は真正面の祭壇中央に聖櫃があり、その近傍の赤いランプが灯っていたら、その聖櫃内に「御聖体」(超一般的な日本語の言い方をするならば「御神体」?)があり、教会内で一番神聖な場所だ。

飲食は禁止。
内部の撮影も、直近のネットでの長崎での観光案内のマナーでは、禁止となっている。


好奇心でいいので入って欲しいと冒頭で書いておきながら、マナーの事にふれると、あれに気をつけろ、これは禁止だ、等々、うるさい事を書いてしまった(笑)ので、「そんなにややこしいのならもう行かない」「もうめんどくさい」と思わせてしまったとしたら申し訳ありませんというしかない。
m(_ _)m

ただ人間を超えた特別な存在を意識する特別な場所なので、逆にそういう場所だからこそ入ってみたいと思ってもらえたらありがたい。

いったい私は何を(誰を)探しているのか?
いったい私は何処に行こうとしているのか?

そんなことを、漠然と考える場所として、最適な場所ではある。








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