カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2017年02月

列福式も終わり、2週連続の特別形式ミサも終わって、大きな行事の後の寂しさもあって、昨年末の待降節の黙想会で関心を持った「十字架の聖ヨハネ」について買っていた本を読み始めた。

しかしどうも黙想会の時の話と内容が一致しない。

何かおかしい。変だ変だと思っていたら、なんと私が買った本は「十字架の聖パウロ」についての本で、別の聖人と間違えて買っていた。

とはいえ、こうした買い間違いも不思議な出会いで、十字架の聖パウロが御受難修道会の創立者であることを知った。

「主イエス・キリストの御受難(を想うこと)は、霊的完徳に達する最短の道」
「十字架に釘付けられたイエスの足跡をたどるべきことをしっかりと肝に銘じておきなさい」

という感じの、どちらかというと厳しい話が続く。

十字架の聖パウロは、幼い頃に十字架につけられたイエスの絵の意味について母親に尋ねたとき「神様があなたをとても愛していらっしゃるから、私たちのために苦しみを受け死んでくださった。」という答えを受けた。
その答えによって「神のものに全くなりきってしまいたいという強い願望を生じさせ、自分はいつでもこのこと記憶していた」と語っている。

十字架の聖パウロは「わたしの望みはイエスと共に十字架に釘付けられること」という言葉をしるし、御受難とは現実の全てを見る光として近づく。

「十字架の聖パウロ」は、18世紀の聖人であって教会の歴史のうえではそれほど昔の人ではない。

十字架の聖パウロを魅了した「磔刑のキリストの御絵」だが、最近の新しい教会(聖堂)では、「磔刑のキリスト像」が少しづつ消えていて「復活のキリスト像」になってきている。

このことについて、仲間と話題になったとき、「磔刑のキリスト像の酷たらしい姿を見るだけで拒絶してしまう人がいるかららしい」という話を聞いた。

そういう変化は、教会のながい歴史の中でも近年というか現在になってからの変化で、かつその変化の大きさというのは、とても大きな変化であるということを感じた。
「磔刑のキリスト像」を「復活のキリスト像」に変えていくというのもアジョルナメント(現代化)の一つなのだろうか?


ところで、少しここで話が逸れてしまうが、「十字架の聖パウロ」で、ネット検索を続けていたら「聖パウロ」繋がり検索結果で、予期せぬホームページに出会えた。

教会関係ではちょっと珍しい(?)おしゃれで美しい魅力的なホームページで、話題にイマドキ感があって見て読んで楽しくおもしろい。

管理人の聖パウロ修道院の修道士TomaPさんの素直でやさしい人柄も伝わってくる。
http://www.tomap.info/

良いホームページだと思った。

上記の「磔刑のキリスト像」のような話や、典礼についてのことでは疑問に思うアジョルナメントも、TomaPさんのイマドキのおしゃれなHPを見て、宣教においては重要で必要なことのようにも思う。

アジョルナメントが必要なところが、現在の日本の教会は少しズレているのかもしれない。

2月7日の列福式において高山右近が福者として認められた事を喜びたい。

(ほんの少しだけれども)動画を見た感じでは、大変荘厳なミサで、行かれなかった事を残念に思った。
やはり数の多さというか、これだけの聖職者、信徒が集まると、カトリック信者もこんなにいるんだということに驚く。

二転三転ではあったかもしれないが、ラテン語答唱が大幅に増えたことで、結果的に今回の列福式ミサが荘厳で素晴らしい列福式になったと思う。

侍者服も伝統的なカソック、スルプリだったのも良かった。

ここまでするんだったら、キリアーレを天使ミサ曲にできたんじゃないかとも思うし、細かいことで惜しいと思うところはある。
しかし一時期は、「ラテン語は無し」というところまで進みかけていたのだから、この軌道修正は本当に適切でとても良かった。

ラテン語に対する無意味で的はずれな反発意見に惑わされず、バチカン準拠の方向にするために指導力を発揮してくださった方々に素直に感謝したい。

ネタバレ注意。具体的には書かないですが映画「沈黙ーサイレンス」のラストを話題にして下記の文章を書いています。  

小説「沈黙」が出版されたときに、当時のカトリック教会の長崎教区では、読むべきではないとされたことが知られている。

この事が少し気になっている。

「沈黙」批判の聖職者のなかには講談社のバルバロ訳聖書の訳者であるバルバロ神父や、様々な著作で知られるデルコル神父がいるらしい。

もし批判のポイントが、小説「沈黙」のクライマックスである主人公ロドリゴの絵踏みの箇所に対しての批判だったとするならば、正直、私にはかなり辛い。

「自分の身代わりで苦しむ者を救うために行った究極の行為」であり「自己判断を奪われた状態での強要」であることを想えば、神様がお許しにはならないとはどうしても思えないのである。


ただ、遠藤さんの、小説「沈黙」については、全体を見通して批判の余地がないかといえば、そうでもないような気がし始めている。

きっかけは、拙ブログに「遠藤さんは、神学的問いかけの連続で、本人も正解を持っていない」「長崎キリシタンに対し、どこか冷ややかなものが感じられる」というコメントをいただいたことで、そういう視点で、小説「沈黙」を読み返せば、やはり教会としては見過ごせない箇所も無いことは無いような気もするのである。

例えば、モキチとイチゾウの殉教場面を虚無感が漂うような虚しい描写で描いているところや、フェレイラが「日本は沼地」と語る場面あたりはどうだろう。

特に「日本は沼地」論に対しては、日本への宣教のために殉教した黎明期の宣教師や、明治以後の再宣教においても日本のために自分の一生を投じた宣教師が、実際に多く存在することを思えば、そういう犠牲や献身を受けておきながら、「日本は沼地」と高みで達観するような言葉を語られても、教会として受容はできないだろうし、宣教に当たっては有害という声が出ても不思議ではない。

この「日本は沼地」論については、 教会として見過ごすことのできない考え方にはなるのは当然のような気もする。

小説「沈黙」には、そういう側面は確かにある。


そういうことをふまえて、スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンス」を再度考えてみたい。

スコセッシ監督の沈黙は、かなり原作に忠実である事は間違いない。
ただし小説と異なるところが無いわけではない。

言葉による文章表現と、映像という表現との違いによって、受ける印象の差は確かにあった。
一番わかり易かったのは、上述の「モキチとイチゾウの殉教場面」だろう。
小説では虚無感の漂うペシミスティックな描き方をされた場面が、映画となった映像では、まさに「証する人」を感じ「キリストの受難」のかたどりとなっているようにさえ思えた。

モキチは、原作以上に登場する場面が多く、 「隠れて祈るのです」「(ちいさな手彫りの十字架を手に持ち)これだけ(しか無いの)です。」という、話したときは気づかない特になんていうほどのことはない セリフを話すが、 映画を見終わったときに ストーリーの上で極めて重要なセリフだったことが ラストでわかる。

遠藤さんが切支丹屋敷役人日記で第三者目線でぼやかした内容に対し、
スコセッシ監督は、 ロドリゴとモキチの関係における自分の解釈を加えている。

いわば、小説「沈黙」世界におけるフェレイラとロドリゴの存在のあり方に対し、その間に一線を引いた。

遠藤さんが、
神学的に問いかけつづけ、本人も答えを出すことに迷いが少し残った曖昧さで閉じたラストに対し、スコセッシ監督は「遠藤さん、このラストでよかったよね」と語りかけるような感じで 一歩原作に踏み込んだ。

私には、スコセッシ監督が、もしかしたら
(文学的にはともかくカトリック信仰的には) 未完 だったかもしれない小説「沈黙」を、映画において完結させたようにすら感じるラストだった。



最後に蛇足だが・・・

「沈黙」の話においては、どうしても「踏み絵」に焦点があたり、そのことについて教会がどのような答えを示しているかを気にする信徒は多いと思う。

コメントで教えてもらったことだが、かくれキリシタンだった浦上の信徒が、信徒発見を経て明治期の再宣教期に、カトリック教会に復帰した際に、十字架山という「絵踏み」の償いをするための祈りの場所をつくった。
その十字架山が、教皇ピオ十二世によって、公式巡礼地に定められた事実がある。


「強要された絵踏み」についての、教会の考え方は、このことにも示されているように感じている。

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