カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2017年01月

ウナ・ヴォーチェ・ジャパンの指導司祭である植田神父の訪日に伴い、2017年2月5日に京都のカトリック北白川教会でラテン語特別形式歌ミサ(トリエント・ミサ)が行われる。

その一週間後に、東京でも特別形式歌ミサが行われるのでお知らせしたい。 


日時: 2017年2月11日(土)(建国記念の日)
9:30〜10:30頃 黙想会
12:00~ ロザリオ(告解)
12:30~ 特別形式の香付き歌ミサ(無原罪の聖母マリアのルルドにおける出現、三級、白)

場所: 東京都北区赤羽2-1-12
カトリック被昇天聖母赤羽教会

(赤羽教会への問い合わせはご遠慮ください。)

黙想会指導、司式司祭:
ラファエル植田勝行神父(王たるキリスト宣教修道者会)

参加費:自由献金(今後の黙想会運営等に使用いたします)
主催:信徒有志黙想会(赤羽教会)後援:UVJ

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2月5日 京都 北白川教会 植田神父

2月10日 四谷 麹町教会 アマート枢機卿

2月11日 赤羽教会  植田神父


という具合の密集した日程で、3回も非定例のラテン語ミサがあるというのは、驚くべきことで、これも福者 高山右近が呼び集めてくれた結果のように感じる。

素直に感謝したい。


念のための注釈だが、ウナ・ヴォーチェ・ジャパンは東京教区で認可されている信徒団体であり、ラテン語特別形式ミサ(トリエント・ミサ)についても、バチカンの教令スンモールポンティフィクムによってこのミサを行う上で全く問題はないことはお知らせしたい。


いま映画「沈黙」が話題になっているが、この映画のなかで、トモギ村で密かに行なわれるミサがラテン語特別形式ミサ(トリエント・ミサ)である。

スコセッシ監督も、厳粛荘厳さのある昔のミサの姿にこだわったという解説が、どこかに書いてあった。


トラディショナルなしつらえの赤羽教会でラテン語特別形式ミサ(トリエント・ミサ)があるというのは滅多にない機会で、トモギ村のミサに惹かれたという方がおられたら、是非2月11日の赤羽を訪ねていただくことをお勧めしたい。



高山右近列福式ミサに伴い訪日されるアマート枢機卿をお迎えし、東京教区では、高山右近列福感謝ミサが、ラテン語通常形式によって行われるらしい。

日時は以下をご参照願いたい。

日時:2017年2月10日(金曜日)18:00-19:20
場所:カトリック麹町(イグナチオ)教会
   JR ・ 地下鉄 四谷駅 一分 
主司式: 教皇庁(バチカン)列聖省長官 
      アンジェロ・アマート枢機卿
共同司式:ペトロ岡田武夫東京大司教他 
主催: カトリック中央協議会・東京大司教区

良いニュースだと思う。





【今回は特にネタバレ注意。ラストも含めてストーリーの内容に触れています。】  


映画「沈黙ーサイレンス」を観た。

非常に厳しい映画である。

キリシタン弾圧の拷問、処刑の場面が、映像化されると大変きつい描写になるということを、頭ではわかっていたつもりだったが、実際に目で見るのとでは違いが大きかった。

前回「「沈黙」は、遠藤さんの小説世界でありフィクションである」とは言ったものの、それは人物描写としての話であって、時代背景としての弾圧迫害については記録も多く、映画「沈黙」の迫害の描写は事実に近いと思う。

誰が観ても酷い描写だが、キリスト教の信者にとしては客観視することが難しく、私にはとても辛かった。

「覚悟して観るように」というシスターのアドバイスの紹介が twitter でツイートされていたが、的確なアドバイスだと思う。
かなり激しく厳しい描写であることはお伝えしておきたい。


映画としては、日本を舞台にした外国映画だが、民俗的な時代考証が非常に緻密で、映像や音声の効果もとても繊細だったので日本人が観ても違和感がない。

ストーリーそのものや、描かれる世界は、完璧と言っていい程に、遠藤さんの原作に限りなく近かったように思う。

酷い描写は辛かったけれども、私はこの、映像化された「沈黙」の世界に接して新たにこの作品を理解できたことが多く、観たことは本当に良かった。

小説を読んだだけでは理解しきれなかった自分の想像力の少なさもわかり、私は自分の見方がやはり一面的で、頑なだったと気づかされた。

特に、この作品にキチジローが必要だった本当の意味がわかったような気がしている。

遠藤さんの小説の人物像では、キチジローは皆から軽蔑される卑怯な男として描かれるがキチジローの何回もの「転び」が、その後に同じ数だけの良心の呵責と後悔があったということに、 映像化された世界のキチジローの叫び声を聞いてより生々しく伝わったきたのである。

キチジローは、確かに殉教者になる勇気を持てない弱い男(現代ならばおそらく私と同じ普通の男)だが、罪の自覚に対しては極めて素直で、いくら踏み絵を踏んでも
、絶望せずにあがく。救いを求める。

1月2日に放映されたNHKーBSスペシャルの中で「転ぶ」というのは、文字どうりの「倒れる」という意味で良いというアメリカ人研究者の解釈があったが、キチジローはまさにその通りだった。

また踏み絵についても、その行為をもって「棄教」と断じてしまうことはたやすいが、自分が踏み絵を踏まなければ、自分の代わりに他の信徒が拷問され続けるというロドリゴと同じ状況では、もう選択はありえず、踏み絵そのものが精神的拷問、処刑だった。

棄教というのは、強制された踏み絵ではなく、自ら神の存在に耳と心を閉ざし背を向けたときが真の棄教なのだろう。

いろいろな解説を読むなかで「最終的にロドリゴにとって、キチジローが師となった。」という解説があったが、キチジローの存在の有無はロドリゴとフェレイラの残りの人生の違いとなる。

この解説を読んで、キチジローが、遠藤さんのこの後の小説の「侍」に登場する中間の与蔵と二重写しになって、遠藤さんが描く「救い」とは、常に「寄り添う存在」がテーマだったということを思い出した。


ラストの切支丹屋敷役人日記のエピローグの部分は、ほんの少しだけ原作から踏み込んでいる。
というか、ここは小説では読者に想像と解釈を委ねるところなので、ここはスコセッシ監督が解釈した内容になる。

かつての篠田正浩監督による邦画版「沈黙」の方は、原作者の遠藤さんが納得がいかず、ラストシーンの削除を求めたらしい。
篠田監督は、その要請に応えなかったので、この映画は遠藤周作の原作「沈黙」とは、メッセージが別物になってしまっていると言っていい。篠田監督が勝手な解釈をした「沈黙」ということになる。

スコセッシ監督のラストシーンのほうは、遠藤さんが存命ならどう思うだろうか?

篠田監督とは異なりスコセッシ監督の表現は、控えめだけれどもトモギ村のかくれキリシタンに対するリスペクトが最大限に表現されていたように思った。

おそらく遠藤さんも、このラストには共感し納得してくれるだろう。

中盤の、(その時は重要さに気づかない)ほんのちょっとの挿入場面が最後に非常に重要な意味をもったことになるのだが、この挿入は遠藤さんの原作の流れを全く壊さず、最後の切支丹屋敷役人日記のエピローグの謎解きにつながった。

この映画のラストはとても良かったと思う。

ラストで、ロドリゴの「沈黙の声」に対する想いが示されたことに賛否はあるのかもしれないが、この作品の結論が「(神の)沈黙」で終わらないためには必要だった。

スコセッシ監督に拍手を贈るとともに感謝したい。

きっと遠藤さんも理解して喜んでくれるように思う。


【ネタバレ注意。ストーリーの内容に触れているところがあります】  

映画「沈黙サイレンス」がついに公開された。

気になってしかたがないので、いろいろとネットを検索しているからかもしれないが、世間一般でも関心が高まっているようにも感じる。 

22日の首相動静によると、安倍首相もご覧になったようだ。

キリスト教の信者のみならず、多くの人に見て欲しいと思うが、 この作品を観るうえでの大事なポイントがある。

この作品は17世紀のキリシタン弾圧下の日本を舞台にはしているが、 いろいろな意味で、あくまでもフィクションであるという点だ。

もちろんキリシタン弾圧は歴然とした事実で、遠藤さんの史実としての時代考証の信憑について言いたいわけではない。 

ただ物語を設計するうえでは、歴史上の出来事を踏まえ、記録に残る人物像を膨らますという作業がある。
この小説においては、物語の中で遠藤さんが小説世界で必要とする人物像があったように思え、そのために、その小説世界の人物像が必ずしも実在の人物と一致するとは限らないという点だ。

つまりフェレイラや井上筑後守という人物が、どういう人だったかということは、この小説ではあまり意味をなさず、遠藤さんの物語「沈黙」におけるフェレイラ、井上筑後守 として観る必要がある。 

キリシタン迫害も主人公ロドリゴのモデルとされる宣教師キアラの存在も事実だけれども、歴史ドラマとして観るのではなく、遠藤周作さんの心の内側の宗教的葛藤を表現した宗教的な物語として観ないと、この作品が問いかけるメッセージを見誤ると思う。

「沈黙」の、17世紀のヨーロッパ社会の人間が全くの異文化の世界に飛び込むという設定は、読者もまた江戸時代の禁教令下の日本に連れて行かれるようだが、あくまでもここは、遠藤さんの物語「沈黙」の世界だ。

ロドリゴの旅は、日本で宣教に当たっていたフェレイラを探すことから始まるが、この目的で始まった過酷な旅の目的地は形而上的にはまぎれもなく地獄で、メタファーとしてのユダもサタンも登場しているのではなかろうか?
「形だけ踏めばいいではないか」という通詞の囁きは、メフィストフェレスの囁きのようだ。

その地獄のなかでロドリゴが最終的に出会う踏み絵のキリストが、真のキリストなのかどうかということが、神学的に論点になるところなのかもしれないが、遠藤さんのこの物語においては紛れもなくキリストとして描かれる。

作者の遠藤さんの分身とも言えるロドリゴの旅路はキリストと出会う旅で、この小説世界のなかでは読者もロドリゴと同化しているからだと思うが、遠藤さんのこの物語における「苦しみに寄り添う神」の登場に、頭で考える以前に、心が反応し魂が揺さぶられる。


しかし、今回の映画化のなかで、少し気になり始めていることがある。 

まだ予告編映像を見ただけなのだけれども、小説の中では「神の沈黙」を感じさせる無常感と虚しさの漂うモキチとイチゾウの殉教の場面が、映画となった映像では「キリストの受難」のかたどりとなっているように感じるということだ。

ロドリゴは、踏み絵のときだけではなく、モキチとイチゾウの殉教を目撃することで、受難を受けるキリストとも出会っているのかもしれないのである。

小説とは違う映像という生の表現手段によって予期せずに作者である遠藤さんの意図を離れているのかもしれないが、これは「沈黙」という物語世界のなかで、スコセッシ監督の手によって新しい本来の物語が誕生しているという見方もできるかもしれない。 

また小説では、踏み絵を踏んだ後のロドリゴについては、切支丹屋敷役人日記として第三者視点で描写されるが、坦々とした描写の中で「寄り添う神」がチラッと姿を示す。

遠藤さんは「思想的漂泊をし続けていた」とコメントで教えてもらったことを思い出す。
その、キリストを探しキリストを求めた漂泊の生涯を想う。


正直、観に行くのが辛いし、怖い。

しかし観に行かねばならないと思っている。


1月2日にNHKのBS1で、今月の21日に封切りされる映画「沈黙ーサイレンス」についてのドキュメンタリー番組があった。 

お正月の2日に2時間に近い番組を放映する、NHKの興味の持ちように少し驚く。

映画「沈黙」は、日本人作家の日本を舞台にした小説をアメリカ人が制作する映画で、日本人俳優も多数出演するということもあって、日本で関心が高まりやすい設定にはなっている。

ただしキリスト教徒ではないほとんどの日本人にとっては関心の持ちにくい題材だし、殉教、棄教という宗教的テーマは、信仰心がなければ理解してもらえるかは、正直、疑問だ。


また、NHKのドキュメンタリーを観る限りでは、キリスト教徒であるアメリカ人の研究者であっても、小説「沈黙」における日本のキリシタン迫害を「権力者による宗教弾圧」というシンプルな敵味方の構図で理解してしまっているような感じがした。

「転ぶ」という言葉を「棄教」ではなく、文字通り「倒れる」「つまづく」という理解でいいとしてしまっていた大学での講義の場面もあった。

単純化した構図にしてしまうのはアメリカ人の特性だろうか?

やはり文化の違いによる民族気質の違いを感じてしまう。


小説をよく読めば、権力の側にいる井上筑後守、通詞も、元はキリシタンと思わせる描写があり、ほとんどの登場人物が一度は福音を受け入れたキリシタンという人物設定になっている。

現在の日本人キリスト教徒が、ほとんど逃げ場のない弾圧のなかで自分がどうなっているのかを仮定として想像し自己投影してしまう複雑さが「沈黙」にはあるはずだ。


「沈黙」理解のためには、当時のキリシタンに対する深い理解が必要な感じがする。



私のほうも、封切りの前は好奇心があったのに、なぜか戸惑いが湧いてきて、観たい気持ちと観たくない気持ちが錯綜している。
私の場合は、映像化された遠藤さんの小説「沈黙」の世界を、正視するのが怖いのかもしれない。


とにかく

キリスト教徒ではない日本人にはわかりにくく、

キリスト教徒であっても外国人の場合は深いキリシタン理解が必要で、

日本人キリスト教徒であっても極めてナーバスな内容で緊張を強いられる。


「いったい、どういう人に向けた映画なんだろう」と思ってしまうマーケティング視点に乏しい「作りたいから作った」映画で、おそらく興行的にはあまりヒットはしないだろう。


実は、篠田正浩監督の1971年の邦画版「沈黙 SILENCE」も私は観ていない。

この邦画版は、チラッと聞いた内容では原作からかなり離れているところがあるようだったので、一瞬で観るのがイヤになったことを覚えている。


やはり殉教、棄教という題材は、やはりとても難しく重い。



ただし・・・


今回のアメリカ映画版は、一度は神学校に入ったこともあるというスコセッシ監督が、映画化するために28年間もこの小説と向かい合ってきた時間の重さがある。

スコセッシ監督とそのスタッフの、小説に対する理解の深さや想いの強さは、ドキュメンタリー番組でのインタビューと、挿入される予告編画像で充分に伝わってくるものがあり、やはり心が動かされた。


興味深いのは、小説では無常感が漂う描写であったモキチとイチゾウの殉教の場面が、映像によるリアルな表現になったために、苦しみを肉眼で直視することになったということだ。

スコセッシ監督もインタビューで「撮影現場のその場にいた全員が共に苦しみ、神の存在を意識した。」語っている。


もしかしたら小説の世界で遠藤さんが設計した意図が、映像化によって自然に離れ始め、遠藤さんの意図とは異なったところに、感動の光が当たっているかもしれない。


天国の遠藤さんも、良い意味で小説と映画という手法の違いによる結果に驚いているかもしれず、感想を聞いてみたい映画の仕上がりになっているような予感はする。


躊躇しながらも、やはり私も観に行くのだろう。

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