カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

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キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2016年12月

NHK大河ドラマで戦国時代が舞台になる時は、キリシタンの武将が登場することがあるが、今年の「真田丸」では明石全登という武将が登場した。
高山右近、蒲生氏郷、黒田如水、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠のあたりまでは名前がでてもそこから先はクリスチャンでも知らなかったりするのだが、それ程に有名ではなくても、やはり信仰を持ったがゆえに大きな歴史のうねりに巻き込まれた武将がまだまだ存在し、古文書に名を残しているという事実に、また好奇心が疼く。

関ヶ原合戦当時の総人口は1200万人とも2000万人とも言われているようだが、最盛期(1610年頃)は60万人まで増えたというキリシタンの人口を当てはめれば、人口構成比としては現在の3倍以上の比率になる。

明石全登が登場している大阪夏の陣は、ちょうど高山右近が日本から追放されマニラで亡くなった年(1615年2月)の夏でもあって、キリシタン禁教令の出された1612年とも合わせて見れば、「豊臣氏の滅亡」という歴史上のポイントは、キリシタン史的にも歴史の転換点だったということになる。
明石全登も、大阪城で徳川の大軍を目の前にして後々のキリシタンの行方をも想っただろう。

来年の2月7日に日本のカトリック教会にとって念願の高山右近の列福式があるが、右近がマニラに流された時の日本の有り様にも想像力を働かせ、感覚的に少しでも実感の伴うものにしたいと思ったりする。


くしくもこの高山右近列福式と重なるイベントとして、もう一つキリスト教界隈で大きな注目を集める話題は、遠藤周作さんの代表作で問題小説でもある「沈黙」が映画化されて、年明けの2017年1月21日から公開されるというニュースだ。

高山右近の国外追放以降のキリシタンの歴史というのは潜伏キリシタンの歴史になるが、「沈黙」の舞台は、世界史でも類を見ない熾烈な迫害が記録として残るそのキリシタン禁教令下の日本になる。

ハリウッドのマーティン・スコセッシ監督によって映画化されていて、近いうちに公開されるという噂は、今年の年初には既に伝わっていた。
年内の封切り公開とされていたので少し遅れたが、ホームページでは既に予告編が公開されている。 

一般的にもシリアスで重い映画には違い無いが、カトリック信者、キリスト者にとっては当事者意識を持たざるを得ない為にかなりきつい映画で、予告編でちらっと見た描写だけでも精神的に充分に滅入るものがあった。 
全編を映画で見れば、小説で想像するものとは比較にならない映像の生々しさによって大きく心が揺さぶられるのは間違いない。

そもそもハリウッド映画にむいているような小説では無い。
小説では主観描写と客観描写を混ぜることで「直接語らずに間接的にわかる」ところがあるが、客観描写であるオランダ商館員日記や切支丹屋敷役人日記の部分を、映画でどのように表現するかは難しいとも思う。
同じ遠藤さんの純文学作品でも「侍」のほうが舞台となる場所が多くて多様だから映像的に絵になり易く、こちらの方がおそらく映画化に向いていたとも私は思う。
それでも「沈黙」が映画化されたのはスコセッシ監督の20年越しの想いの強さによってらしい。

生前、遠藤さんもスコセッシ監督の代表作である「タクシードライバー」について、ご子息に「あの映画は観た方がいい」と語っていたらしいから通じ合う何かがあるのかもしれず、スコセッシ監督による映画化は天国で喜んでいるかもしれない。


かつて日本のカトリック教会では長崎教区などで、小説「沈黙」は、信仰の為には読まない方がいいという評価がされたらしい。
現代の日本のカトリック教会がこの映画版「沈黙」に、どのような反応をするかはわからない。
ただし聖職者も含めた感想は多く出るような気はするし、聖職者ほど積極的に語ってほしい。

この映画をどのように受け止めるかによって、信仰にどのように活きるのか、活かされるのかが大きく変わるのだろう。
受け止め方によっては、逆効果ともなり得る。

とりあえず見に行ってみようというのではなく、この映画の場合は小説の方から注意深く細部も読み、どのような受け止め方をするかイメージをしながら見に行った方がいいかもしれない。

観に行くタイミングを図りかねているが、それでも観に行くことになるのは十中八九、間違いはなく、四旬節を迎えた中で、時に直視できなくなるような心の痛みを抱えながら観るのかもしれない。


待降節の最中にあり、希望を持って主の降誕を迎える時なのに、なんともタイミングを外した内容になってしまった・・・

それ程にこの映画は気になって仕方がない・・・

中川神父の黙想会の日に、帰路でまた何冊か本を購入してしまった。

書棚の空きが無いし、未読の本が溜まってしまっているので購入は控えていたのだけれども、 河原町教会は、敷地の横にキリスト教専門書店のサンパウロがある。
講話を聞いていろいろ関心が高まっている心理状態では、立ち寄れば買わないでいることのほうが難しかった。
 
購入した本の一冊は「聖人たちの祈り」という薄く小さい300円の中綴じの冊子で、46人の聖人の祈りが載っている祈祷書のような本である。 

「お祈り」が載っているだけで出典の記載や背景の解説が無いのだが、「聖人たちがどのように祈ってきたのか」ということに関心が向いたし、値段がお手頃なのが良かった。


おそらく日記か何かで残された文章から、引用されたものもあるのではないだろうか?
ありのままに綴られた文章で、創られた祈りという感じがしない。

心のままの心情吐露のような文章で、どちらかといえば詩集のようでもある。

特にアヴィラの聖テレジアと聖トマス・アクィナスが印象に残った。

 アヴィラの聖テレジアの祈りは以下の内容になる。

(以下引用)

私の神よ、今、このときまったく自由に、何の留保もなく私の意志をあなたにお献げいたします。

主よ、残念なことに私の意志はいつもみ旨にかなうとは限らないのです。

私が真理を愛するようあなたはお望みです。それなのに、しばしば虚偽を愛してしまうのです。

私が永遠を愛するようにあなたはお望みです。それなのに過ぎ去るもので満足してしまうのです。

私が偉大なものに憧れるようにあなたはお望みです。それなのに取るに足らないものに執着してしまうのです。

主よ、私が心苦しく思うのは、あなたがすべてを超えて愛しているか否かを確実に知るすべがないことです。

私をあらゆる悪より常にお救いください。
み旨が私の内で行われますように。
主よ、あなただけが私の全てであってください。

(引用終わり)

アヴィラの聖テレジアのような、大聖人であっても罪の自覚におののき悩まされている心模様に驚く。

アヴィラの聖テレジアだけではない。
「神学大全」著者の聖トマス・アクィナスも同様に「私を見捨てないでください」と心のままに祈っているのである。


河原町のサンパウロでいっしょに買った「存在の根を探して」という中川神父の本も同時に読み進めているのだが、 この人間の罪の自覚については、創世記のアダムとイブの失楽園の話を題材に説明している。

中川神父は、失楽園の話を「恐らく人間の内面の最も深みにおいて密やかに繰り広げられる出来事で、人間への根深い誘惑と、それによって人間が本来のあり方からずれていく様子が描かれています」とし、「蛇」という「誘惑者」の存在に対して「生きたペルソナ的な力を持った存在であることを教会は経験してきた。」と述べていた。

この「教会は経験してきた。」という箇所は、まさにアヴィラの聖テレジアや聖トマス・アクィナスが祈りで表現せずにはおられなかったという事を指すようで、ピッタリと当てはまるような感じがする。

の恐ろしさは、実は外面的な怖さを持つものだけではなく、囁き声で惑わす「誘惑者」でもあって、退けるためには心のままに祈ることが必要だという事を、やはり聖人から学べるような感じがした。

先週の土曜日に京都カテドラルで待降節黙想会があった。

いろいろな用事が溜まっていてどうしようか迷っていたが、やっぱり行くことにしたのは、黙想会の指導司祭が、以前から評判を聞いていた カルメル会の中川博道神父だったことが理由として大きい。

こういう事もささやかな決断なのだけれども、結果としてやはりアクティブな方を選択して良かった。

「この時が来るのを待ってた!」と思う程に、私にとっては期待をはるかに超えた黙想会になったような気がする。


中川師は、第一講話の冒頭、NHKの「ためしてガッテン」などの引用もしながら、現代人のストレスに対処するためのメンタルヘルスの視点から「黙想」の科学的な効用を説明をされた。

短時間であっても静かに自分を心を見つめる時間を持つ事で、心の健康はもとより生産性も向上するという。
繁忙とは、実態だけでなく「繁忙感」による「心の気ぜわしさ」でもあって、多かれ少なかれ、慌ただしさを抱えながらも、黙想会に参加してきた人たちの、気持ちを切り替えるところからスタートさせるというところが上手い。

もちろんこのわかり易い話は イントロで、しだいに心の階層の深くに話は進んでいき、グイグイ話に引き込まれる。

話は、硬軟織り交ぜながら内容が多岐にわたり、しかも一つ一つの内容が精緻に関連しているところがあってポイントをまとめるのが難しいが、どういうことを話されたか断片的に列記すると、

祈りは注意によって成り立つ。どんな注意をしているかということが、どんな祈りをしているかということを大きく左右する。

「キリストに会いたい」という教会の門の前に立つ人に対し、私達はどのように会わせるのか?
そもそも私達自身がキリストに出会えているのか?

主キリストは、受難の始まり(捕縛のとき)と復活の時に、「誰を探しているのか」と尋ねられている。主が言われた言葉は「最終的に、私達は誰を探しているのか?」という私達に向けられた言葉である。

というようなことを話されるのである。

中川神父は、表情が柔和でしかも大変優しい綺麗な声の温厚な紳士なのだけれども、問いかける言葉は鋭い。

しかしその問いかけによって私達を突き離すのではなく、

アビラの聖テレジア、十字架の聖ヨハネ、などの聖人たちは、主キリストと出会うためにどのようにしてきたか?

という話の展開が次にある。

「問いかけ」「ヒントを示し」「考えさせる」という構成になっている。

時に離れたりしたこともあった私と教会との関係は、私の人生の歩みと同じ長さになるわけだけれども、出会ってきた神父は、教区司祭や活動修道会の司祭がほとんどで、観想修道会との縁は少なかった。
というか、やはり観想修道会は少ないので、求めなければ出会え無いのかもしれない。

中川師の話をどれだけ私が理解できたかは心許ないけれども、もしかしたら、私にとってこれほど内容が濃い講話はいままで経験してこなかったかもしれず、これは大変な出来事だったのかもしれないとじわじわと想い初めた。

おそらく今回の黙想会だけでは済まず、以後、宇治カルメルの黙想会にも行くかもしれない。
そういう変化によって、大袈裟かもしれないが人生も変わるだろう。

良き師との出会いというのは、あらためてとても大きな御恵みだと思い、神様に感謝した。

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