カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2016年07月

アメリカでは人工妊娠中絶に反対するプロライフ運動が盛んで、大規模なデモが行なわれる事があると聞いた事があった。

ワシントンで行なわれるマーチフォーライフというデモは、参加者が50万人にもなるらしく、フランシスコ教皇も「祈りを持って参加する」というメッセージを出されている。

いままで知らなかったが、このマーチフォーライフは2014年から日本でも行なわれているらしい。

2016年の今年も、先日の参議院選挙があった7月10日日曜日に東京であった。
優生保護法が成立したのが7月13日なので、毎年7月の第二日曜日に行うことにしているようだ。

「脱原発デモで「子どものいのちを守ろう」と叫んでいるひとが中絶を容認していたら、それは木を見て森を見ない態度と言わざるをえません。」

と代表の池田さんはネットで語っている。

  http://prolife.jp/mfl.html

マザー・テレサも「平和に対する最大の脅威は中絶」であり、「中絶の現実に比べればどんな悲惨な戦争も驚くに値しない」という言葉を残したらしい。

マザー・テレサが来日した1981年から35年も過ぎているのに日本の社会に改善の兆しはない。


プロライフ運動に対しては、なぜか日本のカトリック教会も反応が非常に鈍い。
無反応に等しい状態といってもいい。

「いのちへのまなざし」という司教団メッセージが出たことはあったが、安保法制反対、憲法改正反対というような体制批判のためにそそぐエネルギーには遥かにおよばない。

例をあげれば、カトリック正平協が出している「すべての人のいのちと平和な暮らしのために。教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙出来ない」という冊子がある。
 
例によって、ごちゃごちゃと体制批判政権批判がいろいろ書かれている。

ところが「教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙出来ない」と表紙に書いておきながら、堕胎という最もわかりやすい「人間のいのちと尊厳に関する問題」に対する記述は一言もない。

正平協にとって、こういう言行不一致は気にならないようだ。

美しく聞こえる言葉は、共産主義に迎合したリベラルな政治活動をするためのプロパガンダで、堕胎によって命を絶たれる胎児に対しては黙殺するのが現在の日本のカトリック正平協の姿だ。

美辞麗句をいくら並べても本当の弱者に寄り添う姿勢は全く見えない。
 
カトリック信者でもカトリック正平協にそっぽを向く人が少なくないのは、こういう偏向的で偽善的なところが嫌なのだろう。


アメリカのマーチフォーライフでは、「見捨てられた人のために口を開け(箴言31-8) という聖句が引用されるらしい。

「もの言えぬ人の命を守る」ためには原点にあるプロライフについてスルーすることはありえないという素直な動機が、
50万人デモという大きなうねりとなっている。

日本のマーチフォーライフ代表の池田さんは、ワシントンDCの50万人デモに参加した印象を、次のように語っている。

やさぐれた思春期以来、こんなにも希望に満ちた光景に出会うのは初めてでした。世界が変わりました。そして、ここから世界が変わると確信しました。興味は喜びに変わりました。気がつけばハッピーの渦のなかにいました。もはや誰も、やさぐれている必要はありません。ここに来て声をあげるのです。傷を負っていたひとも笑顔で前を向きます。いのちを守ろう! 一点の曇りもないその思いから、世界は変わるでしょう。政治が、経済が、そして表現の可能性が変わるでしょう。

中年になっても私は「やさぐれた」ままだが、池田さんは「マーチフォーライフ」によって閉塞感から既に脱出されているように感じた。

バチカン典礼秘跡省の長官であるサラ枢機卿が、典礼について重要かつ重大なメッセージを出された事が、世界で話題となっている。
NewsCatholic Churchにあった記事の訳文を、友人からいただいたので紹介したい。

https://www.lifesitenews.com/news/vatican-liturgy-chief-asks-all-priests-and-bishops-to-face-east-for-mass-fa

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【以下訳文】

バチカンの典礼長官は、ミサにおいて全ての司教司祭が東方に向くこと、信者が聖体拝領でひざまずくことを求める。

ロンドン2016年7月5日付LifeSiteNews – 昨日ロンドンでの典礼会議演説で、教皇フランシスコ下カトリック教会最高権威の一人であるRobert Sarah枢機卿が、すべての司教司祭に、ミサ聖祭で会衆に向かうより、ご聖櫃に向かう古来の姿勢に適応していくよう呼びかけ、それが今年11月27日に始まる待降節までに実施されるよう要請した。彼は話の中で教皇フランシスコが、バチカンの典礼長官である彼に、「典礼に関してベネディクト16世が始めた働きを続行すること」を求めたと明らかにした。

その告知は直ちにCatholic Herald deputy編集者Dan Hitchensに、「これは2007年に発布されたベネディクト16世名誉教皇の自発教令Summorum Pontificumで司祭に与えられた、伝統的ラテン語ミサを祝う大いなる自由以来の、さらなる偉大な告知である。」と絶賛された。

バチカン研究家は特に、リベラル派と多々みなされる教皇フランシスコ自らが典礼において、より伝統に近づくよう奨励したことに驚いているが、Sarah枢機卿は「われらの聖なる父である教皇聖下は、ベネディクト名誉教皇の典礼における洞察と方策に、最大の敬意を抱いておられるのです。」と述べた。

会議に出席していたフランスFrejus-Toulon教区のDominique Rey司教は、Sarah枢機卿の要請を躊躇なく受け入れ、少なくとも待降節までに彼の教区で変更を実施すると明言し、Sarah枢機卿に、「貴殿の要請に応え、私は今、私の教区教会で必ずこの待降節最終主日に、また他の適切な機会においても、そこにまします主に向かって聖体祭儀を挙げることを約束したい。」と申し入れ、「待降節前に教区の司祭たちに手紙を書き、私の計画を説き、つき従うよう奨励いたします。」と付け加えた。

Sarah枢機卿は、敬虔かつ神に栄光を帰する典礼祭儀に感謝を表しながらもこのように嘆いた。「この数十年、教会では多くの典礼の破壊が起こりました。そこでは神を除外するかのように人間の個性や地位が高められています。」
Sarah司教は人々の理解を深めるために彼のアフリカの伝統を用いた。「私はアフリカ人ですが、はっきり申しますと、典礼は私の文化を推進する場所ではなく、むしろ私の文化が洗礼を受け、神へ導かれる場所でした。」

Sarah枢機卿は、第二バチカン公会議の父たちが、信心深い者をより多くミサに呼ぶために典礼を刷新する必要があったと示したが、殆どの努力は失敗に終わったと言う。「兄弟姉妹の皆さん、どこに公会議の父たちが話した信心深い者がいますか。」

枢機卿は続けた。「敬虔な者は今や不敬虔に陥り、典礼に来ない信者もいます。ヨハネ・パウロ2世の言葉を借りれば、多くのキリスト者は『静かな背教』のうちにあり、『神が存在しないかのように生きています。』(2003年6月28日欧州の使徒的勧告)。一体どこに公会議が勝ち取ると望んだ一致があるのでしょうか?そこにはまだ届いていません。我々は、人間全体が教会の家族と呼べる真の進歩を成し遂げたでしょうか?いいえ、逆に我々は典礼を損なってしまいました。」

彼は、『今日教会の至る所に見られる典礼の破壊』に『深い悲しみ』を表し、「ご聖体の余りある偉大さは、その解釈の曖昧さや価値の軽視を許すための贈り物ではありません。」と提議した。

彼の述べる破壊の一つは、司祭たちが「奉仕者にご聖体を配らせるために脇に寄る」その時である。司祭にとってそれはミサに与る平信徒に実質許可されていると考えられている。しかし、とSarah枢機卿は言う。「それは寧ろ間違いです。それは司祭職の否定と同時に平信徒の聖職者化を擁しているからであります。」
「形成は大変誤った方向に向かっており、それを正す必要があります。」彼は付け加えた。

彼は伝統的ラテン語ミサの寛大な受け入れと、ベネディクト16世が予てから提唱する伝統ミサの実施を奨励した。ラテン語の使用、聖体拝領でのひざまずき、グレゴリオ聖歌も然り。「我々は、単に宗教的ではなく、まして俗歌ではなく、神聖なミサ曲を歌うべきです。公会議は、ローマ式典礼が、各自国語のみで行われることを意図したのでは決してあらず、朗読において特に自国語の使用を増やせるよう取り計らったのです。」と彼は言った。

聖体拝領のひざまずきについて、バチカンの典礼長官である彼は司祭たちに、信心深い人々の拝領時のひざまずきを否定してはならないことを再認識させ、さらに信者には可能な場所ではひざまずいて聖体を受けることを奨励している。「病気でないのであれば、聖変化でのひざまずきは必須であります。西側では、それは神のみ前に我々を低くする身体的礼拝行為であり、それ自体が祈りの行動です。ひざまずきと片ひざまずきが典礼から消えてしまった場所では、特に聖体拝領で、祝された我らの主を受ける際に、それらが復興される必要があります。」

彼は話の中で長時間にわたり、司教司祭たちを「東方」に向かわせ、人々が我らの主に向かうミサに招くことに専心した。ここに鍵となる引用を置く:
「私が典礼秘跡省長官として勤めているにせよ、ひざまずきが教会のあらゆる場所で、熟考と内省、学識の向上、良い典礼の実施を促進させるという望みをもって、司教司祭としての謙遜のうちに私は主のみ前にひざまずきます。」
「全司祭に要請します・・・可及的速やかに、典礼式で我々が神に呼びかける際に、司祭と信者が共に同じ方向、東方、少なくとも主のまします祭壇の後ろに向かう共通の姿勢に戻ること。これが大変重要であると私は信じています。」
「そしてまた、親愛なる司祭たちよ、あなた方の注意深い教理指導をもって、それが教会と人々にとって良いものだと信頼した上で、可能である限り何処でもこの行いを実施することを求めます。」
「あなた方司祭の裁量で、いつどのように実施するか決定できますが、この待降節の第一主日に始めること・・・が時期的には良いでしょう。親愛なる司祭たちよ、我々は再度、神の嘆きであるエレミヤの預言、「彼らは私に背を向けた(エレミヤ2:27)。」を聞くべきです。さあ、もう一度、主に向かいましょう!」

「そして司教兄弟たち、あなたの司祭と信者を、教区教会で、特に大祝日において主に向かうよう導いてください。どうか神学生たちにも、我々が司祭職に招かれているのは、我々自身が典礼の中央にいるためではなく、信者たちを自分と同じキリスト者の仲間として神に導くためであると動機づけてください。どうかこの単純な、しかし深遠な改編を、あなた方の教区教会において、教区民と神学生で手助けしてくださいますように。」

Sarah枢機卿はご聖体に関する司祭の重責を終始強調した。「司教司祭は、重大な責任を担っています。我々の良い見本が、どれほど良い典礼を造り上げ、逆に我々の不注意や間違いが、どれほど教会と神聖な典礼を損なうことでしょうか。」
彼は司祭仲間に警告した。「典礼における怠慢の誘惑に気をつけましょう。なぜならそれは悪魔の誘惑だからです。」

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解釈の余地のない明瞭な指針をバチカンの典礼秘跡省長官が出されたことに感謝したい。

日本のカトリック教会が、フランシスコ教皇とサラ枢機卿の意向を誠実に受け、正しい典礼への刷新がなされるように願う。


重度の自閉症の診断を受けた東田直樹さんの本を読んでいる。

会話が出来ない東田さんは、子供の頃にお母さんの工夫による文字盤ポインティングという方法でコミュニケーションが出来るようになり、パソコンを使うことで自分の気持ちを表現する「作家」となった。

絵の才能を認められる人はいても、東田さんのように自閉症で文筆活動を行える人は少ないらしい。

自閉症に対し、特性を端的に表現するために「人の気持ちがわからない」という表現をする場合がある。

自閉症者は、まるで「愛がわからない、感情がない、心がない」とでも言いたげな、この突き放すような酷い言葉を、一般の素人だけではなく、専門機関、医療関係者でさえ使ってきた。

この鈍感で心ない言葉によって、どれだけ多くの誤解を生み、自閉症者やその家族が傷つけられてきたかは想像するに難くない。

東田さんの本は、自閉症という症状を持つ人たちの苦労や気持ちを代弁する本になっているが、それだけではなく詩的な表現の文章力にも引き込まれる。

東田さんの「跳びはねる思考」という自分の気持ちを綴ったエッセイに次の言葉がある。

「僕の気持ちをほんの一部でもわかってくれたら、嬉しくなります。人は話をする時、相手に対して言葉以上のものを受け取ってほしいと、常に願っているのではないでしょうか?

そのために思いが伝わっていないと感じたとたん、心に不満や葛藤が生まれます。
気持ちが十分伝わったと思えたなら、ひと言だけでも満足するはずです。

母は僕が泣くと『つらかったね』『悲しかったね』と言って、よしよししながら抱きしめてくれました。父や姉から、泣くなと注意されたこともありません。母の腕の中で泣きたいだけ泣くことができたのは、本当に幸せでした。

僕の望みは、気持ちを代弁してくれる言葉かけと、人としての触れ合いだったと思います。
どんな自分も受け止めてもらえるという体験ができたからこそ、僕は壊れずに生きてこられたのでしょう」


自閉症の特性は「人の気持ちがわからない」ではなく「コミューケーションがうまくできない」と表現するべきで、コミュニケーションの努力をすべきなのは健常者のほうなのである。


東田さんの存在が、世の中に広く知られるようになったのは、2014年放映のNHKの「君が僕の息子に教えてくれたこと」というドキュメンタリー番組らしいが、なんと東田さんは10年ぐらい前から本を書いている。

12歳の時に書かれた「この地球(ほし)にすんでる僕の仲間たちへ」という本のまえがきには、次の言葉がある。

この本を出そうと思ったきっかけは、僕と同じような障害を持っている子供の気持ちを、少しでもみんなに分かって欲しかったからです。

僕たちはいつも困っていてひとりぼっちなのです。
僕たちを笑わないでください。
僕たちをのけ者にしないでください。
僕たちを助けてください。

この本を読んで僕たちの仲間になってくれたら、僕はとてもうれしいです。
この地球にすんでいる僕の仲間たちへ。
たとえ今がつらくても、生きることをあきらめないでください。
みんなが僕らの仲間になってくれたら、僕らだってこの世界の中で生きていけます。

みんなが分かってくれるように、僕が頑張ります。


「跳びはねる思考」の中のインタビューに

「必要とされることが人にとっての幸せだと考えています。そのために人は人の役に立ちたいのです」


という言葉があったが、12歳の時の決意の延長に今の東田さんの姿があるということがわかった。

電車の中で読んでしまって、不覚にも涙目全開になってしまった・・・

前回、話題にさせてもらった統計数理研究所のホームページ「日本人の国民性調査」は、日本の国で共に生きる同胞の意識を知る意味でなかなか面白い。

「宗教観」についての統計(2013年)もある。

「宗教を信じるか?」(あなたは何か信仰とか信心を持っていますか?)という質問は、
もっていない・信じていない」 72%
「もっている・信じている」   28%

「宗教か科学か」という質問では、
「宗教は救いにはならず、科学の進化で救われる」 12%
「宗教と科学が協力し合っていく必要がある」   45%
「科学の進歩は人間の救いとは関係ない。人間を救うのは宗教の力だけである」 3%
「科学が進化しても、宗教の力でも、人間は救われるものではない」      32%
という結果になっている。

「科学でも宗教でも人間は救われない」という回答には、どのような真意があるのだろうか?

あきらめのようなペシミスティックでネガティブな反応もあるだろうけれども、例えば「人は人によって救われる」という考えあるのかもしれないから、この「科学か宗教か」という設定は、ちょっと強引な二択になっている感じはする。

総じてこの調査では、積極的に宗教を信じる人は少数派のような感じだ。

ただし矛盾しているとも言えそうな数字もある。 

「宗教心は大切か?」という別の質問では、
「大切」    66%
「大切でない」 21%

「あの世を信じますか?」という質問は、
「信じない」  33%
「どちらとも」 19%
「信じる」   40%

設問の妙によって、日本人らしいあいまいさが浮き彫りになっている。

どうやら、現代の日本の社会に生きる人々にとっては「宗教」と「宗教心」という微妙な言葉の違いでそれぞれ異なった感覚を持つようで、者の場合は、既存の宗教(団体?)をイメージして近寄りがたいというような感覚を持ち、後者に対しては、個人的な内的信心で自然な心情と受け止めているのではないかと想像した。

「宗教」と「宗教心」の言葉の間に「信じることは難しいが信じたい」という微妙な心情が漂っているようにも感じる。 
つまり「宗教」と「あの世」や「神様」がイコールではなく、「宗教は信じてない(信じている自信がない)があの世はある、あるいは神様(人間を超越する存在)はいるような気がする」ことなのかもしれない。

つきつめれば、この「宗教を信じるか?」という問いは、やはり「苦しさからの救い」において「何を信じるか?」という問いでもある。

苦しみは「問題解決」によって救われる。例えば病気に苦しむ状況にあったとしたら「問題解決の実効性」を求め病院を訪ねる。
しかし病院では、問題解決するすべがないこともある。

やはり人生では解決しない問題が多くあるのである。
 

上述のアンケートにもどれば「宗教か科学か」という質問は、宗教とを科学を並列で比較しているが、人生の苦しみにおいては並列ではなく、科学(医学)では解決できないことを知る苦しみのなかで、その先にある「宗教」の姿が目に止まるのではないか?

解決しそうにないから苦しいし「それでも救われたい」から「救いを信じたい」気持ちへ転嫁する。

私が晴佐久神父を尊敬するのは、その救いを求める気持ちに対し、「あなたは必ず救われる」という「救いの断定」によって、真正面からその願いに応えてくれるところだ。

自分の力ではどうしようもないとき「神様助けてください」と祈り「神様の御業(みわざ)」に縋る。
「救いの断定」とは、「救いの御業を信じること」 であり、いうならば「救いとは『救われる』と信じること」「信じることが救い」ということなのかもしれない。 


宗教」の姿が目に止まるということを書いて、思い浮かんでくるのが画家のカラバッジョの描く「エマオの晩餐」の絵だが、この絵の登場人物である宿屋の主人には、目の前の人物が「復活したキリスト」の姿としては見えていない。

同じ絵の登場人物であるキリストの死を落胆していた二人の愛弟子には、目の前の「
復活の奇跡、神秘」に気づき驚く。

私にとって「宗教(教会)」は「神様の御業(みわざ)」を願い祈り信じる場であり、そのために必要なのは「神秘」、つきつめれば「ミサ・御聖体」ということなのだろう。

エマオの晩餐

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