カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2016年06月

価値観についての統計だと思うが「あなたの一番大切なものは何ですか?」という質問をされる意識調査がある。

統計数理研究所という研究機関が行っているようで、この調査は内閣府の資料でも引用されている。

直近の2013年の調査結果では
家族」      42% 
「愛情、精神」           18%
「生命、健康、自分」18% 
「子ども」       7%
「お金、財産」             4%

となっている。

「子ども」というのも「家族」だから、「家族(子供含む)」で、49%となりほぼ半数。
単身世帯が増え、晩婚化も言われているのに、統計的には逆にダントツの1位というのは興味深い。

この選択肢の場合、「時間」というのはどこに入るのだろうか?
何番目なのかはちょっとわからない。

「自由」とか「信仰」という回答ならば、「愛情、精神」にまとめられているのかもしれない。

この質問。私はどう答えるだろう?

20代の頃のならば「自由」と答えたかもしれないし、今でも「時間」がとても大切という感じはある。

しかし現在の私が一番目に選ぶものならば、やはり多くの人と同じく「家族」という回答をあまり迷わずに選択する感じがする。


家族という集まりは、親子も夫婦も因縁、縁起によって出会った絆のもとで共に生きている。

そしてまた意味深いのは、夫婦や養子のように、たとえ血縁関係が無くても「家族」という関係は存在する。

話が前々回に戻ってしまうが、結局のところマルティン・ブーバーの「<われーなんじ>の〈関係性〉の世界」「<われーそれ> の〈もの〉の世界」の話を当てはめるならば、家族というのは、一番実感し易い「<われーなんじ>の世界」ということなのではなかろうか?

スパッと別れずに混沌と入り混じっているような感じがすることが多いこの「二つの世界」説だが、「家族」の関わりというのは 、もう〈関係性〉のかたまりで、関わらないことができない世界 なのである。

一番大切なものだから
関わらないことができないのか、関わらないことができない世界 だから 一番大切なのかはよくわからない。

そういう存在だから家族についての悩みごとというのは、ひときわ辛い。


公教会祈祷文では家族の祈りとして「父母のためにする祈り」「子女(こども)のためにする祈り」「聖家族に対しておのが家族のためにする祈り」がある。

「子女(こども)のためにする祈り」は次の内容になる。

「天にましますわれらの父よ。われは主の御恵み(おんめぐみ)によりて賜りたるこの子女(こども)を、謹みて主の御保護のもとに託せ(まかせ)奉る。願わくは御(おん)みずからかれらの父となり給え。われらの愛子(あいし)が世の腐敗に勝ち、内外の悪しきいざないを防がんために、御慈悲をもって、かれらを強め、悪魔の謀計より救い給え。なおその心に聖寵を注ぎ、聖霊の賜物を与え給いて、イエズス・キリストを認め愛せしめ、日々御旨(みむね)に適わしめ、この世においては、熱心に主に仕え、後の世においては、主の御前(みまえ)に喜ぶを得しめ給わんことを、われらの主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン」


抜粋は望ましくないのかもしれないが、

天にましますわれらの父よ。われは主の御恵み(おんめぐみ)によりて賜りたるこの子女(こども)を、 謹みて主の御保護のもとに託せ(まかせ)奉る。願わくは御(おん)みずからかれらの父となり給え。

というここの部分は、祈祷書がなくてもいつでもどこでも祈れるように、記憶し覚えておきたいと思った。



印象に残ったマルティン・ブーバーの「二つの世界説」に対する興味が、少しズレて飛び火してしまったのかもしれない。
複数の世界が交錯する「インセプション」というハリウッド映画を観たくなった。

封切りの時は、私は気づかなかったが、公開から既に5〜6年経過している映画らしい。
ただ古過ぎるというほどでもないので、レンタルDVD店でも棚にある。

このところ気持ちが疲弊しているのもあって、手軽な気分転換に映画はちょうど良かった。

ひとことで、どういう映画だったかというと「夢」の話である。

将来に対する願望とか願いという意味の「夢」ではない。
睡眠のときの「夢」の話で、特殊な装置(心電図の計測機のような感じ)をつければ、複数の人間で同じ「夢」を共有できるという、現実ではない 空想の話、SFである。

そもそも「他人の夢の中に入り込む」「同じ夢を共有する」ということが「それはあり得ないだろう」というツッコミどころなのだけれども、まあSFなんだからと、その前提を許容してしまえば、演出の巧さもあるので話の展開にグイグイと引き込まれる。

(ネタバレ注意  以下の文は、ストーリーの内容について触れています。)

しかし、なにせ夢の話なので、映像としての「夢」の描写は奇想天外で面白い。
パリの「街」がねじ曲がってひっくり返る(3DCGで本当にひっくり返っているように見える)場面があり、こういうところはハリウッドらしい特撮の見せ所になっている。
話の設定が特撮映画向きの話なのである。

あらすじは、 夢の世界を設計したり夢の世界の中で自在に変身できる、複数の夢のスペシャリストがチームを組んで、ターゲットとされる人物の夢に侵入し、潜在意識に一つの思い込みを「植え付ける」、いわば「夢」でマインドコントロールをするという話。

夢の中での事象は、感情がメタファーとして形象化されるというのも面白い。
「金庫の扉」は、誰にも見られたくない自己意識の深層の扉であり「銃を持ったボディガード」もまた、侵入者から自己意識を守るための防衛隊である。

最終的に「夢」に侵入するチームは、雪山にそびえる鉄壁の要塞の防衛隊と激しい銃撃戦になるが、「人の夢の世界に侵入するような不埒な輩だから、激しい抵抗に合うよなぁ」とついつい思ってしまった。

もう一つ面白かったのは、夢の中でまた眠り「夢の夢」をみる、つまり「夢」の第二層が存在するというところだ。
映画では、夢の中で眠りについて、さらにまた次の階層へと進んでいく。

階層が進めば進むほど、描写が過剰になり、時間の経過が長くなる。
現実世界の10時間が、夢の階層に移ると 1週間の永さになるというような具合だ。

この映画は、ターゲットの夢の中での戦いというアクションの場面とともに、侵入チームのリーダー、コブ(レオナルド・ディカプリオが名演)のシリアスなサブプロットが展開し絡んでくるのだが、こちらの話は少し重い。

コブは、夢の世界の設計において過去に大きな過ちをおかしている。
夢の世界では、記憶を元に情景を作ってしまうと現実世界との区別がつかなくなるのにもかかわらず、かつて妻のモルと二人で、非現実の別世界を作ってしまい、その世界で50年も過ごしてしまう(50年の経過というのは、夢の階層が深いほど時間の経過が長いため)のである。

意のままに世界を動かすことは、究極の欲望なのだと思うが、モルは、
夢と現実の違いがわからなくなってしまってついに逆転し「夢」の世界に引き篭ろうとしてしまう。
コブは、この「夢」によって現実世界のモルを失ってしまうのである。

この、コブとモルが「夢」で、暮らした街は、誰も住まなくなった人の気配が全くしない、大都会の廃墟として描かれる。
とても人が住みたくなるような街ではないから、現実世界のモルが命を断ったことで変化を受けた情景かもしれないが、不完全である人間が欲望のもとに創造する世界というのは根本的にどこかに欠陥があり、不完全で、破滅感に満ちているということを、制作者は映像で可視化したかったんじゃないかとも思った。

そもそも「夢を設計し意のままに動かす」という発想が、根本的にに誤っているような感じはする。
制作者は、この欲望のもとに作られた夢世界を破滅させるしか、ストーリーの展開が描けなくなったのかもしれない。

この映画は難しいので、ネット上でいろいろな解説があるのだが、この大都会の廃墟の世界は「limbo」という名になっているらしい。

少しゾッとした・・・

廃墟になってもチラチラ現れるモルの姿は、コブの想念が夢で描いているモルの姿だと思っていたが、逆にモルがいる「limbo(死後の世界である辺獄のこと)」に、コブが迷い込んでいたのかもしれないとも思えたからだ。

「閉ざされた破滅感のただよう世界」のイメージを、見事に表現した映像だった。

印象的には、もしかしたら、このサブプロットが、メインプロットだったのかもしれない。

コブとモルの話は、「失楽園」のアダムとイブの話を想像させる。
「夢の中で夢を見る」という重層的な世界は、現代版のダンテの「神曲」の世界を見ているようでもあった。

「limbo=辺獄」と「煉獄」の違いが何だったかも気になり出し、見終わったあとにも余韻が残り、「神曲」を読み返しながら何度も見たくなる映画のような感じがした。

コブの願いは現実世界?に於いて成就し、救いのあるラストになったことが、見終わったあとでも後味の悪さがなく、この映画のいいところになっている。

音楽は、エディット・ピアフの古い
(少し調子外れの)シャンソンが夢から覚めるための合図として効果的に使われ、印象を深めている。

この変なメロディが頭から離れない。


ところで、聖書で書かれている夢の話といえば、ヤコブの「天国の階段の夢」が有名で、この夢では、天国と繋がっている階段を、神の御使いが登ったり降りたりしている。

夢は、自分ではわからない不思議な情景がある方が、夢らしい。

話のディティールが気になって、「天国の階段」でネット検索したら、韓流ドラマの「天国の階段」に関する項目がドバッと出てきてしまった。
「確かキム・テヒさんが悪役で存在感を出したドラマだったけ・・・」と以前書いたブログのことも思い出して、まだ見てなかったこの韓ドラも見たくなってきた・・・

好奇心が疼き、転がりだすと忙しい・・・

NHKのeテレに「こころの時代」という対談番組がある。

心の修養についての対談番組なので、お気楽な番組とは言い難いが、人生経験や体験談を先輩諸兄から会話を通じて聞いているようで、講演よりは身近でリラックスして観れる感じはする。

この番組はゲストが宗教者になることが多い。
というか、ほとんどそうなっていると言ってもいい。

選りすぐられた人選だとは思うのだが、興味関心の方向が違うことも少なくないから、正直なところ当たり外れはある。

ただし、たいして興味を持っていたテーマではなかったにもかかわらず、いつの間にかじわじわと引き込まれていき、印象に残る話や、琴線に触れるような金言を得られることもある。

先日、志慶眞文雄(しげまふみお)さんという方の回があった。

この回は大当たりだった。

志慶眞さんは、沖縄在住の小児科医で「まなざし仏教塾」という私塾をされている。

ポイントはいろいろあるが、一番印象に残ったのは、近代ドイツのユダヤ人哲学者のマルティン・ブーバーという人の「我と汝・対話」という本の話だった。 

志慶眞さんの解説と共に、ブーバー氏の本の話を少し引用しようと思う。
以下のURLの志慶眞さんのホームページを見ると、もっと詳しい解説がある。


ブーバーの「我と汝・対話」は、いきなり衝撃的な内容で始まる。


【以下引用、ブーバー氏は青字、志慶眞さんの解説は紫字】

世界は、人間のとる二つの態度によって二つとなる。

人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。

根源語とは、単独語ではなく、対応語である。

根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。
この場合〈それ〉のかわりに〈彼〉と〈彼女〉のいずれかに置きかえても、根源語には変化はない。
 
〈われ―それ〉の〈それ〉は対象化、分別化、分断化、固定化、物質化された「もの」である。

したがって人間の〈われ〉も二つとなる。
なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。


〈われ―なんじ〉の世界を生きる〈われ〉と、〈われ―それ〉の世界を生きる〈われ〉とは、まったく異なる〈われ〉である。だから〈われ〉は二つあると。
 〈われ〉が二つあるということは、〈われ〉が生きる世界が二つあるということである。


根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。

〈われ〉はそれ自体では存在しない。根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉と、根源語〈われーそれ〉の〈われ〉があるだけである。

【引用終り】

一般的には、世界というのは一つであり、「私〈われ〉」と、私以外のもの(「あなた〈なんじ〉」と〈それ〉)は、私のとる態度などに関係無く、それぞれ単独で存在していると考えている。

それに対しブーバーは、「世界は、人間のとる二つの態度によって二つとなる」「根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだから、人間の〈われ〉も二つとなる。」と語り 「二つ世界、二人の私」が存在するという説を述べているのである。

志慶眞さんは、「〈われ―なんじ〉は〈関係性〉の世界」「〈われ―それ〉は〈もの〉の世界」とも説明されている。 

哲学を学んだ事がない私が、誤った理解かどうかをおそれながらも、私なりの咀嚼を試みるとするならば、ブーバーの説というのは、
「私が〈あなた〉と呼びかけたとき、私は〈関係性の世界〉で存在し、私が〈それ〉として見たとき、私は〈それ〉として存在する」
つまり一人称である「私」は単独では存在せず二人称である「あなた」と共に初めて存在するか、三人称化した「それ」として存在するということらしい。

この難解な禅問答のような話を、志慶眞さんは、仏法の「諸行無常・諸法無我」という教えとも整合を試みる。
「諸行無常」とは、すべての現象は変化し続けており、永遠に不変なものは存在しないということであり「諸法無我」とは、すべてのものは因縁によって生じたものであって実体がなく、独立して成立するものはないので「我」は存在しないということである。


「〈われ―なんじ〉の〈関係性〉の世界」「〈われ―それ〉の〈もの〉の世界」というのは、現実には、スパッと別れずに混沌と入り混じっているような感じがする。

ただカトリックの私が、このブーバーの説に引き込まれてくるのは、一つは「御聖体」、もう一つは「神の国」というキーワードが頭に浮かぶからなのだろう。

ことに「御聖体」におけるミサの聖変化のというのは、紛れもなく「二つの世界が切り替わる瞬間の可視化」のようにも思えてくる。

「御聖体」を〈あなた〉と思い呼びかけるか、〈それ〉として見るか・・・
〈あなた〉と呼び掛けたときに、〈関係性〉の世界の〈私〉が新しく誕生し、 〈それ〉として見続けてしまったとき、私自身も〈もの〉の世界の 〈それ〉としてそこに留まってしまうということになる。

また、キリスト教禁教時代の、潜伏キリシタンの信仰を思うとき、やはりこの世の中に対比する存在としての「神の国」というキーワードが頭をよぎる。

カトリック教会の教えは教会を離れたところには存在しないし、グノーシス的な考えになってはいけないが、ブーバーの説は、とても刺激的だった。

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