カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2016年05月

「心の貧しい人」という言葉を聞くと、一般的にはどのような人をイメージするのだろうか?

市井での会話では、どちらかといえば「自分本位で思いやりのない未成熟な人」というようなニュアンスがあって、ネガティブな意味で使うことが多い言葉のような感じがする。

ところがキリスト教的な文脈では、「もう私には、あなた(神様)しかいない」「あなた(神様)に縋る他に道がない」というような、無力さゆえに神様に頼ろうとする心に対し「貧しい」という言葉をあてているので、全く意味が違ってくる。

「自分本意で思いやりがないという心」ではなく「自分の弱さを認めて、神をより頼む心」のニュアンスだろう。

聖書では、「 山上の垂訓」の「真福八端」のところ、マタイ福音書第5章「心の貧しい人は幸せである。天の国は彼らのものである」のところが該当する。

この意味合いの違いは、誤解、疑問が起き易いところで、良い意味で「どうして?」という引っかかりある。


この「心の貧しい人は幸せである」をネットで検索していたら、いろいろな説教が読めて味わい深かった。

ネットを通じて勝手に感化され薫陶を受けている、小池神父の説教集のサイトも検索に上がってくる。
「心の貧しい人」に関する聖書の記述を、旧約聖書の詩編などからも引用され、内容に奥行があるというか深い。


いずれにしても「つらい境遇にあり、神様に縋るしか無い」という「心の貧しい人」が「幸せ」というのは、世俗的な幸福感の間逆にあるのは確かであり、こういう人がなぜ幸せなのかというのは、逆説的で難しい。

世俗的には、幸せとは自分の願望の成就であり「自分の夢を実現させるため努力する。努力の結果、願望が叶って幸せを得る。」という幸せの方程式が、世間での共通の認識となっている。
ごく当たり前の、正しい考え方、真っ当な人生観だと私も思うし、誰も否定する人はいない。

ただ、私自身も自分の半生を省みると、「願望が成就するとは限らない」という経験がかなり積み上がっている。
人生の折り返しを過ぎた後半生になってくると、自分の限界や、動かしがたい宿命のようなものを感じることがやはり多くなった。

成就せずというのは「挫折」「敗北」であって、次の願望の成就までの一過程として一時的にそこで学び、乗り越えることはあったとしても、止まっていてはならないというのが、素直な一般的な考え方だろう。

しかし、ある意味「挫折」そのものを宿命としてありのままに受け入れて、そこに止まることにも人生の意味があるかもしれないと思ったとき、福音における「心の貧しい人は幸せ」という言葉が、心に響いてくる。


この「心の貧しい人は幸せ」という幸福感は、聖書では、神の国、天の国によってもたらされる。

神の国、天の国とはどこにあってどのような状態なのか?ということを、頭で理解することは難しいが、感じることならばできるのだろうか?

ミサが神の国なのか?

ミサにおける聖変化と聖体奉挙で、「跪く」ときの事を想ってみる。
姿勢の変化をトリガーにして「神様に縋る心」に身体でスイッチを入れたとき、「跪き」の意味を実感するのは事実である。
「哀しいから泣く」だけでなく「泣くから哀しい」ということも事実であるように、心と身体のつながりを素直な所作で体感する。

頭で理解することは難しい神の国、天の国を、手触り感のような触覚的な感覚というか、チラッと触れたように感じることは、時にできるのではないかと思ったりもする。

あるいは、我が子とのふれあいの中で、子供の素直さのなかに「子供のようなものでなければ天の国に入ることは出来ない」という福音が思い浮かぶ。

上述の小池神父の説教サイトでは、子供のような心とは「生活のすべてにおいて天の御父を見る心」と述べられている。

悩むことがいろいろあると「心の貧しい人は幸せ」という言葉を、やはり想ってしまう。

若葉修道院のUVJの特別形式ミサ(トリエント・ミサ)に与り始めたころ、ミサ後の懇親会で「どうして特別形式ミサに与ろうと思ったの?」と尋ねられ、「好奇心からです」と返答をしてしまった事があった。

特別形式ミサの希少性を思えば仕方がないのだが、あまりにも素直すぎる返答だったかもしれない。

しかし「一度体験したから、もうそれで充分」とはならなかったのは、一度与っただけではわからなかったことが、あまりにも多かったからなのだろう。

同時にまた、当時の所属小教区教会の刷新系のミサに、心の奥底では満たされない気持ちがくすぶり続けていたから、東京に上京する機会を利用しながら、若葉修道院のミサに度々与ったことで、なんとなく深みに嵌ってしまった。


特別形式ミサの持つ、ラテン語典礼の荘厳さ豊かさというものに惹きつけられるというのは確かにある。

しかしそれだけが理由ではない感じがしている。


所作によって、祈りの深さを感じる構造になっているような感じがする。

例えば
DOMINE,non sum dignus,ut intres sub tectum meum sed tantum dic verbo,et sanabitur anima mea.

という聖体拝領の直前の祈りの時。

跪きながら我が身を小さく屈め胸を叩くとき
、ご聖体を前にして、もう子供のように主に縋りつくしかないと思っている私がいる。

年齢と共に抱え込む重荷が益々重たくなっていて、悩みが深くなってきている。
自分の限界もわかってきた。
もうミサに全面的に依存したい。
当たり前のことかもしれないが、悩みが深ければ深いほど、
ミサが必要になってきているのである。

特別形式ミサは、悩める中年男性が、憚ることなく我が身を小さく屈めることで、貧しい素直な心になれるわかり易いミサなのかもしれない。

存在し得ないミサになるが、もしかしたらラテン語ではなく日本語(文語)で、同じ形式のミサがあったとしても、特別形式ミサらしい良さというのはかなり体感できるのかもしれない。

所作によって言葉の深さを体感するミサであり、言葉に対する感性が鈍ってしまっている時には、通常形式よりもやはり心に残る。

毎週日曜日に、淡々と時間が経過するような感覚でミサに与っていては、教会に行く意味が薄れてしまう。

「どうしてミサに与るのか?」 自問自答は続いている。

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