事前に全く情報を知らなかったのでブログにも書くことができなかったのだが、先週の日曜日の午後にラテン語ミサ(通常形式)があったので行ってきた。
前日の夜に、仲間から緊急メールがあって突然知ったので、それまで完全にノーマーク。
前日の夜に、仲間から緊急メールがあって突然知ったので、それまで完全にノーマーク。
前回のブログ記事で「関西は天使ミサですら滅多にない地域」と、書いたとたんに情報提供でラテン語ミサがあることを知るという展開に驚く。
「なんでこんなに秋に集中するのだろう。もっと他の季節にバラけてくれたいいのに。もったいない・・・」とついつい思ってしまう。
聖歌における「刷新」のためには、カトリック聖歌集、グレゴリオ聖歌が邪魔になったのではないか?
いや。というよりもカトリックは普遍だから、本来の正しい姿が再認識された。
「なんでこんなに秋に集中するのだろう。もっと他の季節にバラけてくれたいいのに。もったいない・・・」とついつい思ってしまう。
とはいえ、素直なところではやはり嬉しい。
関西在住のラテン語ミサ復興を願っている者どうしで、ささやかに意見交換、情報交換をしているが、私達が知らないところでも、ラテン語ミサを行う動きがあったのである。
このラテン語ミサは、神父様の司式、説教、聖歌隊のグレゴリオ聖歌とラテン語聖歌、どれもこれも素晴らしかった。
しかし私はこのミサの開催の関係者ではないから「何処であったのか」「誰が主催か」「どういう内容のミサだったか」ということを細かく書くことに少し迷いがある。
私が細かくブログで書いたことで、主催者に良い反応ばかりが帰ってくるとは限らないからだ。
というのは、現在の日本(特に関西)のカトリック教会に於いて、ラテン語やグレゴリオ聖歌に向けられるあまり肯定的ではない微妙な空気を、私がいままで感じてきたためである。
もちろん「グレゴリオ聖歌を歌ってはならない」というような無茶な話が、公式にされていたわけではない。
しかし・・・
私の周りの小教区では、フォークミサの歌集はあってもカトリック聖歌集が見当たらない教会が多い。
天使ミサの話をしても「日本ではラテン語は無理」「ラテン語のグレゴリオ聖歌なんか歌われへん」という根拠のない決めつけの返事が返ってくる。
この後ろ向きでやる気のないネガティブな言葉を聞かされる度に、こちらのテンションが、ガクッガクッと下がってきたことを思い出す。
何故、このような判で押したような決めつけがされてきたのだろうか?
やはり「典礼を活き活きとしたものとするために刷新する」
という方針を打ち出したNICE(福音宣教推進全国会議 1990年前後に開催)の影響が頭をよぎる・・・
聖歌における「刷新」のためには、カトリック聖歌集、グレゴリオ聖歌が邪魔になったのではないか?
そうでなければ、音楽の世界で、常に一定の存在感を示しているグレゴリオ聖歌が、本来歌われる場所であるカトリック教会に於いて歌われなくなるというのは少し不自然すぎる。
現在の状況が、そういう空気をいまだに引きずっている?のかどうかはわからない。
私の周辺の小教区のようなところばかりではないようだから、NICEによる「刷新」の進み具合によって地域や小教区による違いが残り、そのまま微妙な差異として固定化している状況なのかもしれない。
ところで、このラテン語ミサだが、いままでにない少し変わった特徴がある。
このミサは、若者達の主催による「青年によるラテン語ミサ」だったのである。
青年達のミサと言えば一般には、オルガンを使わずにギターを使ってフォーク聖歌を歌うものと思われがち。
しかし先入観のない若者たちの純粋な目によって、ラテン語やグレゴリオ聖歌が、「伝統を受け継ぐ」という新しい意味、メッセージを持ち始め、新しいものが古く、古いものが新しくなった。
いや。というよりもカトリックは普遍だから、本来の正しい姿が再認識された。
やはり「ラテン語復興は懐古ではなく普遍の学び」なのである。
若者たちの、純粋さ、主体性、行動力を称えたい。
地下水脈を流れる水が泉から湧き出るように、次々と少しずつラテン語ミサが復興していく。
今度は、11月22日に、北白川教会で、特別形式歌ミサ(トリエント・ミサ)がある。
この秋に続けて、ラテン語ミサがある事で、同じ想いを持つ人たちの交流の場になると良いと思う。