カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2015年10月

事前に全く情報を知らなかったのでブログにも書くことができなかったのだが、先週の日曜日の午後にラテン語ミサ(通常形式)があったので行ってきた。

前日の夜に、仲間から緊急メールがあって突然知ったので、それまで完全にノーマーク。

前回のブログ記事で「関西は天使ミサですら滅多にない地域」と、書いたとたんに情報提供でラテン語ミサがあることを知るという展開に驚く。

「なんでこんなに秋に集中するのだろう。もっと他の季節にバラけてくれたいいのに。もったいない・・・」とついつい思ってしまう。

とはいえ、素直なところではやはり嬉しい。

関西在住のラテン語ミサ復興を願っている者どうしで、ささやかに意見交換、情報交換をしているが、私達が知らないところでも、ラテン語ミサを行う動きがあったのである。


このラテン語ミサは、神父様の司式、説教、聖歌隊のグレゴリオ聖歌とラテン語聖歌、どれもこれも素晴らしかった。

しかし私はこのミサの開催の関係者ではないから「何処であったのか」「誰が主催か」「どういう内容のミサだったか」ということを細かく書くことに少し迷いがある。

私が細かくブログで書いたことで、主催者に良い反応ばかりが帰ってくるとは限らないからだ。

というのは、現在の日本(特に関西)のカトリック教会に於いて、ラテン語やグレゴリオ聖歌に向けられるあまり肯定的ではない微妙な空気を、私がいままで感じてきたためである。

もちろん「グレゴリオ聖歌を歌ってはならない」というような無茶な話が、公式にされていたわけではない。

しかし・・・

私の周りの小教区では、フォークミサの歌集はあってもカトリック聖歌集が見当たらない教会が多い。
天使ミサの話をしても「日本ではラテン語は無理」「ラテン語のグレゴリオ聖歌なんか歌われへん」という根拠のない決めつけの返事が返ってくる。

この後ろ向きでやる気のないネガティブな言葉を聞かされる度に、こちらのテンションが、ガクッガクッと下がってきたことを思い出す

何故、このような判で押したような決めつけがされてきたのだろうか?

やはり典礼を活き活きとしたものとするために刷新する」 という方針を打ち出したNICE(福音宣教推進全国会議  1990年前後に開催)の影響が頭をよぎる・・・

聖歌における「
刷新」のためには、カトリック聖歌集、グレゴリオ聖歌が邪魔になったのではないか?

そうでなければ、音楽の世界で、常に一定の存在感を示しているグレゴリオ聖歌が、本来歌われる場所であるカトリック教会に於いて歌われなくなるというのは少し不自然すぎる。

現在の状況が、そういう空気をいまだに引きずっている?のかどうかはわからない。
私の周辺の小教区のようなところばかりではないようだから、NICEによる「刷新」の進み具合によって地域や小教区による違いが残り、そのまま微妙な差異として固定化している状況なのかもしれない。


ところで、このラテン語ミサだが、いままでにない少し変わった特徴がある。

このミサは、若者達の主催による「青年によるラテン語ミサ」だったのである。
青年達のミサと言えば一般には、オルガンを使わずにギターを使ってフォーク聖歌を歌うものと思われがち。
しかし先入観のない若者たちの純粋な目によって、ラテン語やグレゴリオ聖歌が、「伝統を受け継ぐ」という新しい意味、メッセージを持ち始め、新しいものが古く、古いものが新しくなった。

いや。というよりもカトリックは普遍だから、本来の正しい姿が再認識された。

やはり「ラテン語復興は懐古ではなく普遍の学び」なのである。

若者たちの、純粋さ、主体性、行動力を称えたい。

地下水脈を流れる水が泉から湧き出るように、次々と少しずつラテン語ミサが復興していく。


今度は、11月22日に、北白川教会で、特別形式歌ミサ(トリエント・ミサ)がある。

この秋に続けて、ラテン語ミサがある事で、同じ想いを持つ人たちの交流の場になると良いと思う。 

前々回と繰り返しの内容になるが、いよいよ来月の11月22日に、関西で一年に一度の特別形式ミサ(トリエント・ミサ)がある。 

第二バチカン公会議以降、長い間、途絶えていた特別形式ミサ(トリエント・ミサ)だが、近年になってから日本でも復興し、東京では信心会のミサで毎月行われている。

ただし関西では、いままで(復興後)数回しか行われていないから、未経験の方が圧倒的に多いと思うし、認知度もおそらくあまり高くないと思うので重ねてお知らせをしたいと思う。

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「ローマ典礼特別形式歌ミサ」

主催  UVJ(ウナ・ヴォーチェジャパン)

11月22日(日)14時から
カトリック北白川教会(京都市)

http://uvj.jp/mass/6304/
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今年は、上記URLの主催者であるUVJ(ウナ・ヴォーチェジャパン)のホームページでも少し早めに告知されている。

誤解されないように、念のためお知らせすると、UVJ(ウナ・ヴォーチェジャパン)は、東京大司教区で信心会として活動を認められている信徒団体。
沿革や素性を詳しく知りたい方は、ホームページを見ていただけたら会の事が理解できると思う。


UVJのような受け皿組織が無い関西では、まだまだミサができる事自体が綱渡りのような状態で、何とか年に一回できるかどうかという感じ・・・

天使ミサですら滅多にない地域なのである。

しかしそういう地域だけに、この一回の意義は大きい。

ただ、この一回を主催するUVJにしても東京大司教区の信徒団体なので、関西在住者による運営ができなければ今後の先行きが見えない。
カトリック・アクション同志会の荘厳司教ミサの存在も含め、ラテン語ミサについては東京と大きな格差が開いてしまっている。

北白川の特別形式ミサに一人でも多くの人に与っていただく事が、東京以外での特別形式ミサ、ラテン語ミサの存在の認知と、今後の存続に向けての力になるとは思うので、ぜひとも近畿圏を中心に近隣も含めた地方の方々にぜひ特別形式ミサを経験していただけたらと思う。

告知なので、もう少しうまくこのミサの魅力をお伝えできればいいのだが、私には通常形式と特別形式の二つのミサの違いを詳しく説明できる知見も見識もない。

体験して感じたことを雑駁な感想として記す事ならばできるかもしれないが、うまく表現できる自信もなく悩む。

ただ特別形式ミサというのは「言葉がラテン語で日本語と違う」「祭壇に対する司祭の向きが違う」というような、ぱっと見の単純な違いだけではないということはお伝えしたい。

カトリック教会の歴史の中で、多くの先人達が与ってきたこのミサを、実際に体験することで、秘跡としての御聖体、ミサ聖祭の神秘を再発見できると思う。

結局、案内ぐらいの事しか書けないが、読んでいただいた方が、特別形式ミサに与ってみようと思い踏み出す動機、一助になれば嬉しい。


以下、注意事項と参考だが、ミサに与る方はご参照いただけたらと思う。

・聖体拝領は、いて口で直接拝領する形式になるので、これは事前に知って意識しておいた方がいいと思う 
(ただし一般のカトリック教会の通常のミサと同じく、聖体拝領が可能なのは、カトリック教会の洗礼を受けた人、キリスト教他教派の方の場合はカトリックに転会した人になる。)

・カトリックのミサに一度も与っていない方は、通常形式と特別形式の違いを知る意味でも、一般のカトリック教会の通常の日曜日のミサを、事前に体験しておかれることをお勧めしたい。

・ミサの流れを掴む手引きとしては、あわれみの讃歌、栄光の讃歌、信仰宣言(使徒信条)、感謝の讃歌(聖なるかな)、平和の讃歌(神の小羊)が、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイになるので、カトリック聖歌集があると唱えることができるし、ミサの進行がどこなのかがつかみやすい。
確か北白川教会にも常設のカトリック聖歌集はあったとおもう。あればミサ中は拝借できるが、個人でお持ちの方は、持参された方が良いと思う。(記憶が曖昧で申し訳ない。)

・ミサ前に、ロザリオか連祷があると思うので、少し早めに教会に入られた方が良いと思う。


とてもイヤな記事をツイートで見てしまった。

上智大学教授である中野晃一さんの安保法制の演説についてである。

この中野教授は、首都圏の教会で頻繁に、カトリック正平脇の集会や学習会の講師をされている人。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/268381
 
このURLの安保法制反対の集会の演説は、教会とは直接関係はない場での話なので、本来は文句を言う筋合いはない。

ただ、カトリック信者としてどうしても拒絶してしまう言葉を見つけてしまった。

「野党の共闘にも、ぜひその踏み絵を踏ませようじゃありませんか。

 どっち側に着くんだ?

 国家権力の暴走に組みするのか?

 それとも個人の尊厳を守る私たち個々人の連帯の側に来るのか?

 はっきりさせようじゃありませんか。」


たとえ政治的な意見表明の文脈の中であったとしても上智大教授でありカトリック正平脇の学習会での講師をされている方が「踏み絵を踏ませようじゃありませんか。」という言葉を発することのできるということに、私は驚きを禁じ得なかった。

「踏み絵」 という言葉は、私にとっては一瞬で脊髄反応がおきてしまう言葉である。

中野教授がカトリック信者かどうかは知らない。

しかし「踏み絵を踏ませようじゃありませんか。 という言葉にカトリック信者がどのような思いを持つかも解っていない人が、 カトリック正平脇の学習会での講師 をしているのである。

いったい カトリック正平脇は、 この人物から何を学んでいるのか?

「個人の尊厳を守る」とか美辞麗句を並べても、絵踏みをさせられた人々の心の痛みがわからないのならカトリック信者にとっては、この人のすべての言葉は虚しい。

私にとっては、安保法制の是非よりも、「踏み絵」 という言葉を弄ぶことのほうが、はるかに大きな問題と感じる。

「踏み絵」の苦しみは歴史に残る事実であり、少なくとも教会においては軽々しく扱う言葉ではない。その感性に、教会の学習会で講師をする適性を疑う。

ほんのひとかけらでもその苦しみを想う気持ちを失ったら日本のカトリック教会はもう終わりだ。

私は 「踏み絵」 という言葉を弄ぶような人の話を、一言たりとも聞こうと思わない。


今回のブログ記事は事前告知。

一年に一回だけ行なわれるラテン語ミサが二つあり、11月は少し慌ただしい。

一つは東京。目白カテドラル
「荘厳司教ミサ」
主催は、カトリック・アクション同志会
11月7日(土)13時40分から

http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/25thmassinfo.html

ラテン語通常形式で、グレゴリオ聖歌による歌ミサ。
主司式は岡田大司教様。加えて多数の司祭による共同司式。

このミサには、もう過去5回与っている。
私は、バンドミサに嫌気がさして一時は教会に来なくなったことがあったような人間だから、教会に立ち帰った後は、このミサは私の大きな心の支えになってきた。



もう一つは京都。北白川教会
「ローマ典礼特別形式歌ミサ」
主催は、UVJ(ウナ・ヴォーチェジャパン)
11月22日(日)14時から

http://uvj.jp/mass/6304/

初めてこのブログを読まれる方のために、少し補足すると、UVJ
(ウナ・ヴォーチェジャパン)は、 「特別形式ミサ」の擁護と促進を目的とする国際団体の日本支部で、信心会として東京教区で活動を認められた2010年設立の比較的新しい信徒団体である。

「特別形式ミサ」というのは、第二ヴァチカン公会議以前のラテン語のミサで、通称トリエント・ミサとも呼ばれるミサのこと。

一般に
トリエント・ミサというのは、現在のミサに切り替わる前のミサと思われがちである。

しかし近年になってベネディクト16世教皇様の教令によって、現在のミサは「通常形式ミサ」で、トリエント・ミサは「特別形式ミサ」と位置付けられている。

したがって、いまこのミサを捧げられることがあっても全く問題はないし、UVJは東京教区で信心会として認められている信徒団体であることを、重ねて強調しておきたい。

このUVJ の「特別形式ミサ」は、東京で毎月定例ミサがあるのだが、関西でも、かろうじて一年に一回だけはなんとかあって、それが今年は、上述の「11月22日(日曜日)」になる。


もっとも関西では、カトリック聖歌集で歌うことができる、シンプルで基本的なラテン語ミサである「 天使ミサ」ですら滅多にない。

そもそもその
カトリック聖歌集を処分している教会が少なくないのである。

私の教会遍歴のなかでも
「日本ではラテン語ミサなど無理」というようなことを言う教会役員がいたが、そういう教会では、既にカトリック聖歌集が処分されていて 天使ミサ」 排除し消滅させるための一行程となっていた。

もちろん、関西を広く見渡せば、グレゴリオ聖歌を守り続けるグループが存在する小教区もまだあるのだが、少なくとも私がよく知る小教区はどこもかしこもカトリック聖歌集は存在していないのは事実だ。

なにゆえに日本の教会が、かくも「ラテン語、グレゴリオ聖歌の排除、消滅」にエネルギーを注ぐのか、その理由は、全くもって私にはわからない。

しかしこのようにラテン語、グレゴリオ聖歌においては荒廃してしまった関西で、「天使ミサ」どころか「ラテン語特別形式ミサ」が捧げられ、声高らかにグレゴリオ聖歌が歌われるという意義はとても大きい。




少しでも上述のミサに興味を持たれた方で、まだ与ったことのない方には次のことをお伝えしたい。

初めてラテン語ミサに与る際には、ラテン語の祈りやグレゴリオ聖歌を、知識として知っているかどうかは重要ではないということをである。

我々の普段与るミサからラテン語は排除されてきたのだから、わからなくて当たり前で、知識はゼロでいいので躊躇することなくこのミサに与ってほしい。

大切なことは、先ずは、このミサに与ることで、ミサの持つ本来の豊かな姿というものを体感し、日本の教会から失われているものの大きさをわかってもらうことのほうが重要と思うからだ。

ラテン語、グレゴリオ聖歌は、第二ヴァチカン公会議前はもちろん、公会議後もしばらくは、日本の教会には間違いなく存在していた。
NICE(
ナイス)などの、「典礼を生き生きとしたものとするために刷新する」 という方針のもとに、伝統は意図的に排除されてきたのである。

現在の日本のカトリック教会のミサは、日本への文化的適合(とされているが単純化平易化である)によって、古代から受け継がれ育まれてきたカトリック教会の伝統的なミサの持つ美しさ豊かさがあまりにも薄められてしまっている。

取り戻さなければ、おそらくこれ以上、日本で「麦穂」は育たないんじゃないだろうか・・・

フィーリング信徒である私は、そんなことを思う。

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