カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2015年07月

また晴佐久神父の話になるが、「教会の外に救いなし」という言葉の解釈を「救いのあるところが教会」と言葉を逆転させて話されているのを聞いたことがある。
(記憶があいまいだが、確かネットの「俗は聖の器」の講話だったと思う http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110726)

一言でズバッと切る晴佐久神父の歯切れの良さを実感した講話だったが、この言葉は、私にとって「教会」を求める旅を促す言葉になっている。


ボンクリであった私が、かつて全く教会に足を向けなかった時期があることは、このブログでも何回も書いた。

毎日歯を磨くように毎週日曜日にはミサに与るというのは、そのこと自体は信仰の土台を固めるということではとても大事なことだと思う。

しかし信徒数が極端に少なくキリスト教が浸透しているとはいいがたい日本という国では、生活習慣だけでは信仰が持続しないということを私は自分の人生経験によって体感している。

やはり「教会に対して救いを求める気持ち」がないと駄目なのだろう。


晴佐久神父は「ミサには完璧な救いがある」とも言う。 

私が、晴佐久神父に共感するのは、おそらくこの教えによって教会というところに希望を持つ事ができるからだ。


しかし・・・

自分では「ミサに救いを見出す感性」を磨いているつもりでも、現実には実感を伴わない事がどうしてもある。


やはり第二ヴァチカン公会議以降、あまりにも多くのミサ典礼の改革が行われ、日本でのミサは変わり過ぎた。

いや、進行形でまだまだ変わり続けている。今年もまた、年末の待降節から「跪き」が全廃されようとしているのである。   

私には、その変化の先にあるものが全く見えないし、わからない。
目的が曖昧なまま、ただ彷徨っているようにしか見えない。


ミサ典礼が次々に変わろうが惑わされずに順応でき、改革に積極的に関わって教会を「現代的?」にどんどん変えたいと思う信徒はストレスも無いだろうから、それでもいいだろう。
そういう信徒が小教区の主軸になって、教会(小教区)はさらに変わっていく。

取り残される私は、心の中で違和感と空虚感が広がっていくだけだ。

今はもう、そういう積極的改革順応教会には見切りをつけ「比べてみれば」というレベルでほんの少しでも良いところが残っている教会(小教区)のミサに与るだけ・・・ 

日常の主日ミサでは、小さくささやか救いを求め彷徨い続ける。

果たして、まだ脱落せずにやっていけるか、以前のように厭気がさしてしまうのか・・・

瀬戸際での喘ぎというところだろうか・・・


ただし、以前私が教会から脱落してしまった時とは、大きく違っている事が一つある。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)が認められて、この日本でも、東京で毎月定期的にミサが行われているという点だ。

皮肉な事に、通常形式のミサが変われば変わるほど、特別形式ミサの煌めきが増していく。

たとえ何ヶ月に一回であっても、強烈な煌めきを発するこの不変のミサに与れる事は、永遠で普遍の神秘に誘なわれるようで、大きな心の支えであり心の救いだ。

ミサに救いを得られる実感」というものは人それぞれだろうが、私の希望の場所はここに一つあるのだろう。

冒頭の晴佐久神父の「救いのあるところが教会」という言葉を、私にとって現実のものとしてくれる「サンクチュアリ」は、存在している。

もちろん、東京の特別形式ミサだけではなく「サンクチュアリ」はまだまだあると信じている。

前々回の「跪くということ」という記事でもコメント欄で話題となったが、日本のカトリック教会のミサについて定める「ローマ・ミサ典礼の総則」の新しい改訂版に基づく「変更箇所」が、本年12月待降節から実施されることとなった。

このところ、その内容がずっと気になっている。

気になる「変更箇所」というのは「諸民族の特性と伝統への適応に関する基準」による「日本における適応」の部分で、要は一言で言えば「ミサ中の跪きの廃止」の説明・・・

総則の本文ではないが、付帯の説明において「・・・聖別のとき、ひざまずくのではなく立ったまま・・・」と明瞭に書かれている。

いったいぜんたい、なにゆえに、日本の司教団は、「跪きを排除」ることに、かくもこだわり続けるのだろうか・・・その理由が私には全くわからない。

「跪く人」のほうがこだわっているというのはわかる。
というのは、おそらく、現時点での多くの日本の教会のミサでは、跪いている人は極めて少数だと思われるからだ。(名古屋の某教会の夜ミサで皆が跪いていたのを見たことがあるが、レアケースだろう。)

私がミサに与っている教会でも「聖変化」で跪く人は、私を含め3人ぐらいまで・・・
周辺の教会も一人いるかいないか。

ある意味、さして影響力もない意固地で偏屈で絶滅危惧品種のような変わり者(私のこと) など、ほっといてくれればいいようなものだが、司教団はそれでは収まらないようだ。

そういう少数の信徒を狙い打ちするような「変更」をあえて加える・・・

司教団のほうも「日本の教会から『跪き』を完全に排除」することにこだわっているのである。



いったいなぜ日本の教会では「跪きを完全に排除」 しなければならないのか?

「ミサ中の所作を一致させる」というようなことは今回の説明でも書かれている。
しかしバラバラの所作を一致させるという理由なら、より丁寧な「跪き」の方に統一する方が自然だ。

「日本の伝統には『跪き』はないから」という理由を聞いたことがあったような気もする。
確かに、神道や仏教における所作ではないかもしれないが、しかしそれほど奇異で特殊な所作とも思えない。いかにも取って付けたような話だ。

「日本のの特性と伝統への適応」というならば、まじめな話、隠れキリシタンの典礼ならば、特性と伝統に値するだろう。ただ立っているだけの所作が「日本のの特性と伝統への適応」というのは腑に落ちない。


これから待降節に向けて、納得のいく説明があればいいのだが、現時点では推測するしかない。

おそらく「今の日本の社会における適合させるための『現代的な教会』には相応しくない古くバタ臭い所作」 という見方なのではなかろうか・・・

古臭いとかバタ臭いとか、そういう見方があっても自由だが、素朴な信心の姿を、
強制的に止めさせる、排除するというのは「良心の自由に対する 介入であり著しい侵害」ではないのか?

今風の言い方をすれば、ある種のパワハラ。。。

子羊に対する愛がない・・・

カトリック教会では、第二ヴァチカン公会議の折に使われた言葉で「アジョルナメント(現代に適合すること)」という言葉があるが 、またしても「悪しきアジョルナメント」が暴走している。

真に「アジョルナメント」が必要なことは、「一致」の名のもとに所作を強制する「全体主義」 ではなく、近代社会が共通善として培ってきた「個の尊重」であろう。


前回も紹介したが、「カトリック的」さんが、より精緻な考察をされている。
拙ブログをお読みいただいている方にも、是非お勧めしたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html#64731641

しばらく私も、視点を変えながら、この「跪きの排除」の問題にふれていきたい。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(以下、コメントを受けて加筆)

上記文中で、「日本の教会のミサでは、跪いている人は極めて少数だと思われる」と書いてしまったが
1万人以上の所属信徒がいる東京四ツ谷のイグナチオ教会(麹町教会)など、「聖変化」での跪きが定着している教会もまだまだあるというコメントをいただいた。

推測による私の認識ミスを自覚するとともに、この問題の大きさをを理解した。
以後もこの話題は続けていきたい。

拙ブログのリンク集に新たに登録させていただいた「護教の盾」さんのブログをご紹介したい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htm

「護教の盾」さんは、聖体拝領のときに「跪いて」拝領しようとしたところ、司祭から聖体授与を拒否されたという経験を持つ。
不当で理不尽な仕打ちにめげず、直接、司教(教区長)に訴え、その結果「教区内ではどこの教会でも跪いて聖体拝領を受けられる許可」をもらったという逸話の人物。

その情熱と信念、行動力は素晴らしい。

大変研究熱心で、バチカンの文書や各国のカトリック教会の関連記事を
引用したうえで考証し、ご自身の考えを述べている。

「護教の盾」ブログは、「聖体拝領時の跪き」等の典礼関連のカテゴリーの内容で、共感する部分がとても多い。

引用記事で、名誉教皇ベネディクト16世のラティンガー枢機卿時代の「典礼の精神」という書籍の引用記事があった。

日本のカトリック教会において、とても重要な内容なので、拙ブログでもご紹介したいと思う。

他にも、学ばされる記事の紹介が大変多い。
詳しくは「護教の盾」ブログをご参照いただきたい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htm

以下引用
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
少なからぬ影響力を持つグループが、私たちに「ひざまずく」ことを止めさせようと試みてきます。
「私たちの文化に合わない」と言います(一体、どの文化に?)。
「まっすぐに立って、神に向かって歩く成人には似つかわしくない」あるいは、「救われた人はキリストによって自由となり、もはやひざまずく必要がないので、ふさわしくない」と言います。(中略)

(しかし)実際、キリスト者の「ひざまずき」は、すでに成立していた何らかの慣習を文化受容した一形式ではなく、それとは全く反対に、キリスト教文化の表現であり、それまでの文化を、神についての新しく深い認識と体験によって変容させるものです。
「ひざまずく」ことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書と聖書が伝える神の認識からきたものです。
pp.200-201
砂漠の教父たちの教えに由来する物語があります。
それによると、アポロンとかいう修道院長の前に、悪魔が神に強いられて姿を現したとき、その容姿は黒く、 おぞましく見え、恐ろしいほどやせた肢体を持ち、そしてとりわけ悪魔にはひざがなかったのです。
ひざまずくことができないのは、あからさまに悪魔の本性と して著されています。(中略)

ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。
その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前では ひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。
信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。
ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。
それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。
p.210
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

このメッセージから、核心にあるポイントを、さらに抜粋すれば
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
のところだろうか。


↑このページのトップヘ