カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2015年06月

晴佐久神父の説教が魅力に溢れているという事は、説教集が本になり評判にもなっているし、拙ブログでもリンクさせてもらっている「福音の村」ブログ http://www.fukuinnomura.com/ を読んでもらえたら、共感する人も多いと思う。

洗礼を授けた人が、積み重ねで850人を超えているらしい。

目に見える「実績」が、「優れた宣教者」証明になっていると言っていい。

しかし、晴佐久神父の傑出しているところは、実はそれだけではないと私は思っている。

「優れた宣教者」の魅力に加えて、あと二点。


ひとつは、神父としての一番基本的な役割で、教会(小教区)という共同体で最も期待される、「良き司牧者」であるということ。

この司牧者としての魅力は、現実の多摩教会の姿が証明する。

晴佐久神父という人が、おそらく「具体的な行動で実践してかたちにして示す人」なのだろう。 
霊的指導というものが、多摩教会の姿に現れているように感じるのである。

ホームページにもその片鱗はあるが、実際に訪ねたら、活き活きとしている様や新しい人をお招きしてもてなす姿勢というものが、インフォメーション、心地良さそうな歓談スペースなど随所に現れている。 聖堂に連なるエントランスに受付係がいるという教会(小教区)も、他に見た事がない。全体的に教会もキレイだ。
「お客さんに来てもらいたい」という気持ちの現れだろうか? 

「ミシュランに教会部門があるとしたら三ツ星を目指したい」というジョークが晴佐久神父のエッセイにあった。

良い宿、良いレストランかどうかは一泊、一食すればわかるように、良い教会もまた、一度訪ねれば、わかることも多いかもしれない。

要は「教会が『常に新しい人を迎える』という、社会に対し開かれた姿勢」に満ちているということだ。

晴佐久神父は、「居心地の良さ」という表現をしていた様に思う。
意味的には「ホスピタリティ」「おもてなし」という言葉でもいいかもしれない。

初めて来た人にも、所属している人にも「居心地の良い」ところ。

自然に人が集まるという事に、あたりまえの理がある。

私の場合も実際に、第一印象がイマイチで、掲示物と配布物が散らかっているような「汚ないな〜」と感じた教会は、いつの間にか御縁が無くなっている。
こういう教会に限って、お題目だけは「開かれた教会」とか言って、アホなイベントで聖堂を使っていたりするのである。

「居心地の良さ」という事は一面的な事にすぎず、それで司牧者としての全てを語るのは無理があるとか、本質的な事ではなく表面的な事と思う人もいるかもしれないが、司牧の結果のひとつの「現れ」であると私は受け止めたい。

おそらく「究極に『居心地の良い』ところは、天国」ということを、晴佐久神父は言いたいのだろう。


最後はミサという祭儀を行う「祭司」としての魅力。

晴佐久神父のミサは、説教のインパクトが強いのでそちらのほうが話題になりやすいのだが、実は大変丁寧な司式で、これもかなり印象的なのである。

一言一句、一挙手一投足の全てに想いがこもっているような・・・

そしてミサの入祭のときに十字架と祭壇へする一礼が本当に長い。

20秒ぐらいは礼をしたまま・・・

この所作で、ミサに与る全員の集中力が高まる。

丁寧な動きと静かな間。 

私の所属教会では「どんなミサでも自然と気持ちが引き込まれる」という具合には、なかなかならない。
秘跡の有効性は変わらなくても、淡々とこなすような進行に感じるミサも少なくない。
私の方が、かなり意識してモチベーションと集中力を高めて緊張感を保つ事が必要な場合も多いのである。

仮に、説教が下手で司牧がちゃんとできていなくても、この丁寧なミサに与れるだけでもよいと思ってしまうぐらい・・・



「優れた宣教者」 「良き司牧者」 「祭司」どの面でも傑出している。

多摩教会の信徒は、かなり幸せと言えるかもしれない。

正直な話、独り占めはズルい。

晴佐久神父は、もはや突出して凄い神父になってきているのかもしれず、もしかしたら教会(教区)はもっと大きな役割を与えることになるのかもしれない。

「あの人は宗教にはまって」というタイトルで書いていた3年前の記事を更新したが、再度読み返して客観視してみると、少し論旨の展開に強引さがある感じがした。
「習俗となっているものならば受け入れやすい」というのは当たり前の話。
しかし習俗になっているとは言いがたいカトリックが、日本の風土で受容されるための条件というのがが「キワモノはダメでハクライモノならいい」というのは憶測でしかない。
確かに「子供と共に捧げるミサ」は伝統的なミサと比べれば「キワモノ」寄りかもしれないが、ラテン語で行うローマンカトリックらしい伝統的なミサが、ハクライモノとして尊重され、現代の日本人の感性で、より受容されるとは限らないのである。

客観視して、いまさら反省しても仕方がないのだが、こういう「宗教に対する不信感の話」を、たびたび話題にするのは、いつまでたってもなかなか信徒が増えないキリスト教の問題というだけではなく、なにか宗教全体が軽く見られているようなもどかしさがあるためだ。

やはり、啓蒙主義や唯物論の影響・・・
近代主義、科学万能主義による、人間の力の過信からくる傲り。

晴佐久神父の「福音の村」ブログにも
「(御嶽山の山頂の神社でお参りしたにもかかわらず被災した方をさして)『まあ、宗教なんていい加減なもんですよ(笑)』神様を揶揄嘲弄する初老男性の話」が載ったことがあった。
(拙ブログでは、2014年10月に「心を尽くし意を尽くし」というタイトルで引用)

例えて言うならば、お地蔵様の前で手を合わせるような素朴な信心を「そんなことをして何になる」と嘲弄するような風土が、現代の日本人社会の一部の宗教観として、無いとは言えなくなってきているように思える。
「習俗」もまた、時代とともに少しづつ移ろいゆくものであるから、文化的基盤となって宗教心や信仰というものを、支えきれるものでは無いのかもしれない。


しかし・・・・・
どうしても疑問に思う事がある。

はたして、死後の世界が無くても本当によいのかという問題・・・
死を目前にして、神の不在を確信し達観できるというような人が、実際にどれほどいるのだろうか?

逃れようの無い真実である死というものを直視していないがための「神への嘲弄」ならば、傲りであると共に現実からの逃避で、それは思慮が足りないということではないか?

人生の大半において神様や宗教を、さんざん揶揄嘲弄しておきながら、いざ最期の時に、神の不在、 虚無の闇に怖れおののく自分の姿が想像できないというのは悲しい。
土壇場になって神様にすがるというのでは、随分「ムシのいい話」ではないか・・・・・

ただしそれでも、マテオ福音書20章では「後の人が先になり、先の人があとになるであろう」という教えがあるぐらいだから、土壇場であろうとなかろうと、心から神様を求め悔い改めればきっと天国に行ける ? (少なくとも地獄は免れる?)のかもしれない。


こういう臨終直前の土壇場の改心を、教会ではこっそりと「天国泥棒」と呼ぶ
(教会での俗語。洗礼まで受けた場合を指すらしい。)

どこかスッキリしないモヤモヤが、この「天国泥棒」という言葉のニュアンスに込められていて、そのモヤモヤした思いは私にもある。
了見が狭いかもしれないが・・・・・


ところで、マテオ福音書20章における「先の人」のほうだが、正直言って「後の人」と同じというのはやはり寂しい。

朝から働きどうしで、夕方から働いた人と給金が同じ。確かに労働を苦役と思えば不公平である。

しかし、意識転換をして、朝からの労働を「やり甲斐」「喜び」と思えばどうであろうか?

「天国泥棒」というのは労働ではなく信仰の話だから、よりわかりやすい。
より早く信仰を持てた「先の人」のほうが「後の人」よりも、やり甲斐がやはり大きいのである。

具体的にミサに与れた回数ということで考えれば「先の人」のほうが、与った回数は遥かに多い。

つまり「ミサに与ることに、信仰の喜びを見い出す」ことが重要となってくるのである。

ミサというもので、喜びを見い出せるかどうかは、やはり原点においては、神を信じるか否か
その上で一歩一歩前に進むことで、ミサというものの理解が少しづつ進み、喜びが生まれ始める。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)にも与れる環境になったという事は、大変ありがたい。
通常形式ミサよりも特別形式ミサは、ミサに与る喜びを見い出すということではわかりやすいと言ってもいい。
の延長線上に、天国でのより完璧でパーフェクトなミサがあるということを想像させるような魅力がある。

それはもうなり手ごたえのある喜びと言っていい。
イメージができるということは、チラッと天国を見るのと同じ事だからだ。

天国泥棒という「ムシのいい話」は、実は「(機会を逸するという意味で)もったいない話」なのである。

ちょっと最近マンネリ化傾向にあるので、以前の記事を更新したい。
(既読の方は申し訳ありません)

2012年6月の内容だが、
3年も経過しており、自分でも客観的に読めるのが面白い。
最近は
「子供とともに捧げるミサ」に慣れてしまっているだけに、当時の自分の感覚が新鮮。
最近は文末を「です」「ます」でなく「だ」「である」にしているので合わせ修正した。

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「あの人は宗教にはしって」言われてしまうときの宗教の姿というのはあまり既知でも普遍的でも型どおりの宗教でもないという感じ。
既知ではないものに対する警戒感も含んで、なんとなく不信感がただよっているような・・・

きつい言葉だが「キワモノ」という見られかただろうか?

一般的な日本人のイメージにとってカトリック教会ははたして「キワモノ」なのか?

日本においては、神道仏教のような存在感はなく、やはり「日本古来の宗教ではないヨーロッパの宗教」というイメージがやはり強い。
しかし世界宗教としての存在感と歴史と伝統はあるから「キワモノ」というよりも、どちらかといえば「ヨウモノ」「ハクライモノ」といった感じではないだろうか。

カトリックはヨーロッパで育まれたわけだし、やはり圧倒的にヨーロッパの情報量が多いから、やはり一般的にはヨーロッパの教会のイメージになる。

素直に見ればそうだと思う。

やはりカトリックはローマンカトリック。
近年は直接ヨーロッパを訪れ、自分の目でその教会文化を見る人も少なくないから、体感的にもそう思う人は多いと思う。

かねてより私は、今の日本のカトリック教会が、ローマンカトリックとしてのイメージを変えよう、「刷新し型を破ろう」としている事を危惧している。

なぜか?

「型を破ろう」
とすればするほど一般的なイメージとのギャップが生じてイメージが掴みにくくなるからだ。
「なぜ、あえてわかりにくくする必要があるのか?福音宣教と言いながらそれはおかしい。『ヨウモノ』『ハクライモノ』でいいじゃないか。」
なんてことを思う。

わからなくなることでイメージが「キワモノ」になりやしないだろうか・・・・・

先日、偶然「ギター伴奏のフォークミサ(子供とともに捧げるミサ)」に遭遇し与ったが、やはり危惧を再認識した。聖歌に宗教的な響きがなくローマンカトリックのイメージがしない・・・
キリスト教の信仰を持たない一般的な日本人の目には、おそらく「ギター伴奏のフォークミサ(子供とともに捧げるミサ)」は「既知ではなく」「普遍的とも思えず」「習俗ではない」と映るのではなかろうか。

私には、ローマンカトリックの正統イメージから離れ、浮かび上がってただようようなふにゃふにゃ感を感じてしまう・・・

バチカンのイメージを払拭した日本独自のカトリック教会のような姿を指向すればするほど、「既知でもなく普遍的でもない新興宗教のような」イメージになっていくような感じ。
一般的な、普通の、素直な、ローマンカトリックのイメージを壊す必要は全くないと思うのだが。

自ら「へだての壁」を築いているんじゃないだろうか・・・

「表層的な事を言うな!」と言われそうだが、私のような教義理解の浅いフィーリング信者にとっては、そこで躓きかねない。

イメージ、感性というものは「型がある」という意味で、とても大事なことで「ヨウモノ」「ハクライモノ」であってもきちんとした流儀があれば、尊重されると思う。

「こんなんもあります。あんなんもあります。どれもこれもみんなカトリックです。」と言われても、そんなふにゃふにゃしたものが信用されるだろうか?

やはりキワモノと思われるのはいやだ。

私は「子供とともに捧げるミサ」がミサとして有効ではないと言いたいわけではない。
多くの教会に幼稚園が併設されている現状を考えれば、幼稚園との関係性において、子供たちを主に考えるミサがある事も理解しようと思っている。
ただしそれは幼稚園行事の延長で行われれば良いのであって、普通の主日のミサで行う必要があるのだろうか?
ほとんどが大人ばかりなのに「子供とともに捧げるミサ」をする理由がわからない。

「子供とともに捧げるミサ」も何回もあると慣れてしまって、小教区では違和感に麻痺してしまっている人も多い。
しかし、一般的な世間の目線で客観視する必要はあると思う。

私は、ローマンカトリックの正統なイメージを大切に思っているので「子供とともに捧げるミサ」に与ると、どうしても複雑な心境になってしまう・・・・・


ちょっと最近マンネリ化傾向にあるので、以前の記事を更新したい。
(既読の方は申し訳ありません)

2012年6月の内容だが、
3年も経過しており、自分でも客観的に読めるのが面白い。
最近は文末を「です」「ます」でなく「だ」「である」にしているので合わせ修正した。

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お地蔵さんの前で手を合わせている人や神社やお寺にお参りしている人をさして「宗教にはしって」とは言わない。
と前回書いたわけだが、これを起点に考えてみる。

まず第一に「型がある。型どおりである。典型である。」というような「既知で普遍的で習俗となっていること」であり、

第二には
誰かに言われて手を合わせているお参りしているのではなくて「自然で自発的な個人的な信心の姿」だからだろうか。


前回の記事の輸血拒否の「エホバの証人」も確かそうだが新興宗教の中には、非常に熱心に戸別訪問で宣教を行う教派がある。
しかし、私の親戚(カトリックではない)に言わせると、その個別訪問をする姿はとても肯定的に受け止めることはできないという。
ちいさな子供を連れてくるらしく、自分の家族を犠牲にしてまで訪問する姿は全く幸せそうではなく、まさに「新興宗教にはしって」という状態に見えるようだ・・・
そしてまた信徒にそういう事をさせる教団というものに対して否定的な感情がわくのは自然なことでもある。
感じ方は様々かもしれないが、私もそう思う。

信仰信心というのは心の領域のナーバスな部分であるし「押しつけられるのは誰もがイヤ」な事の一つ。
戸別訪問は宣教というよりも勧誘で、成果があるとは思えない。

宣教とは何なのか。どうすべきなのか。という事を考えさせられる。
やはり、いきなり勧められて「ハイそうします」というものではない。

関心を持つ入り口はいろいろだと思うが、やはり「人」の姿、行動をみて心が動くという場合が多いのではなかろうか。

その人をみて、ベースとなる価値観に興味を持つというような・・・
例えばマザーテレサとか。
もっともマザーテレサのような偉人でなくても身近な人であってもそうで、親子兄弟、親戚友人知人の場合もあるだろう。

入り口が「芸術」「文学」という場合も、確かにある。
この場合も、創作者に興味を持ってということなのだろう。

やはり、一般の信徒にとって現代における福音宣教というのは、自分自身が信仰に基づいた行動をとって、ささやかではあっても、共感をもたれる人間になるということが入り口なのだと思う。

つまり「宗教にはしって」と言われているうちは福音宣教にはならないと私は思っている。

ちょっと最近マンネリ化傾向にあるので、以前の記事を更新したい。
(既読の方は申し訳ありません)

2012年6月の内容だが、
3年も経過しており、自分でも客観的に読めるのが面白い。
最近は文末を「です」「ます」でなく「だ」「である」にしているので合わせ修正した。

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「あの人は新興宗教にはしって・・・」あるいは「あの人は新興宗教にはまって・・・」という言葉で始まる会話は、宗教に対しあまりポジティブな会話にならない。
最近は「新興」がなくなって、単に「あの人は宗教にはまって」となっている場合もあるような・・・

なんか肯定的なニュアンスに乏しい・・・

オウム教のような例外はあるが、たいていの宗教の教義は社会的には、だいたいまともな倫理観道徳観であるのに不思議である。

「はしる」あるいは「はまる」というニュアンスには、「自分を見失っている」「他の事が目にうつっていない」「独善的」という感じで、なんか「宗教=カルト」というような見られ方なのか?

世の中、金銭的な豊かさで幸福感にひたるような世俗的な価値観が強くなっているし、啓蒙主義的な人間中心主義によって価値観もどんどん多様化している。
無神論的な傾向も相まって「特定の倫理観道徳観を押しつけられるのは疎ましい」という否定的な受け止め方をしてしまうのかもしれない。

もちろん、営利目的のかくれみのような宗教法人もあるし、のめり込んで財産を失ってしまったとか、そういう「お金がらみでだまされた」みたいな疑惑のまなざしはある感じ。

だいぶ前の事だが、エホバの証人の輸血拒否事件のとき、たまたまタクシーに乗って運転手さんと世間話をしていたら、「とにかく宗教が全て悪い!!」「諸悪の根源!!」とまで力説し始めて、その勢いの強さに「どうなんでしょうかねぇ・・・」としか言えずトホホ・・・な感じ(笑)になった思い出がある。

ただし、お地蔵さんの前で手を合わせている人や神社やお寺にお参りしている人をさして「あの人は宗教にはまって」とは言わない。いったいどういう状態のことを言うのだろうか。

「あの人は宗教にはまって」というのは、信仰を持つ人にとってネガティブワードで、なんともいやな言葉だが、客観視させられるところもあって、いろいろ考えていくといろんな事に気づきがある感じ。

ちょっとどういう展開になるかわからないが、シリーズで、少し駄文を書いていきたい。

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