カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2015年05月

「ロウソクの炎」について、印象に残っている話がある。

話の出所は、テレビだったか本だったかも含め、記憶が曖昧。
確信は持てないが(ホスピスで多くの看取りをされた)柏木哲夫さんが語られた話だったと思う。

病気で奥様(ご亭主だったか?)に先立たれた人の、今際の際に聞いた遺言の話である。

死んでもまた会いに来るからね。何が出来るかはわからないけど、ロウソクの火を揺らすことぐらいなら出来ると思うから、ロウソクの火が揺れたときは、私が帰ってきたと思ってね。」という 言葉を亡くなった奥様が残されたらしい。

さりげない話なのだが、この話を知ってから、なんとなく私も「ロウソクの炎の揺らぎ」が気になるようになってしまった。

「ロウソクのまわりで空気の対流が起こるから揺れる」という風に、科学的に考える律儀な人はやはり多いだろう。

しかし「ロウソクの炎の揺らぎ」に何か別の意味や気配を感じてしまう人も少なくないような気がする。

小説的というか、詩的というか、宗教的というか、科学を越える感じ方をした時から、理屈ではない神秘的な世界への旅が始まる。
 

「ロウソクの火」について書いていると、昨年に観た、観想修道院の日常を描いたドキュメンタリー映画「大いなる沈黙へ」を思い出してしまうのだが、あの映画でも「ロウソクの火」の映像があったような気がする。

ある意味、ストーリーのない長い単調な映画だったし、場面の切り替えが早かったので、どこだったかはハッキリとは覚えていない。

私の記憶では、あの映画で「ロウソクの火」と似たような(というよりも意味的に「ロウソクの火」以上の)視覚的インパクトがあったのは、ラストの赤く光る「聖体ランプ」の映像だった。
擬似臨死体験のような映像で、こちらのほうの映像はもう目に焼き付いている。

「聖体ランプ」というのは、聖体が聖櫃の中にあることを示すサインなので点滅に意味があるのだが「死後の自分の魂がロウソクの火を揺らす」という直感的な想念と何か感覚的な近さがある感じがする。

「キリストが現存する」サインだからだ。

もし「大いなる沈黙へ」を観て「ラストの赤い灯を再び見たい」と思われる方は、「聖体ランプ」は映画のような観想修道院ではなくても、カトリック教会の聖堂には必ずあるので、どうぞ是非、遠慮なくお訪ねください。

ただし夜中に教会の中に入ることはできないと思うので、真っ暗闇の中で見るのは少し難しいですが・・・

誰でも「振り向いて見ないほうがいい(見てはいけない)ものを見てしまう」というのは、誰でも少しは経験した事がありそうなシュチュエーションだろう。

旧約聖書の創世の書(創世記)第19章に「振り向いて塩の柱になってしまう」話がある。


どういう内容かと言うと・・・

神様が「ソドマ(ソドム)とゴモラ」という悪徳の街を滅ぼうそうと決めるのだが、義人であるロトの家族だけは救おうとして天使を遣わす。
天使はロトたちに「決して後ろを振り向かないように」と言いつけて街を離れさせるのだが、ロトの妻だけが、道中で言いつけを破って後ろを振り向き街を見てしまう。
その瞬間。ロトの妻は塩の柱となってしまうのである。


「ソドマとゴモラ」の街というのは、どのような悪徳で乱れていたのかといえば、やはり性的な退廃を感じさせる街だし、かつ、この創世の書(創世記)第19章は、それ以外も性的なタブーに触れている部分があり、全体的にドロドロした印象は否めない。

ちょっと今回は、あまりこの退廃話に深入りするのは止めておきたい。


気になるのは振り向いて見ないほうがいい(見てはいけない)ものを見てしまい」「塩の柱」になってしまうというところである。

「ロトの妻」が、住んでいた街を離れるのを惜しむ気持ちがあり振り向いたのかどうかはわからない。

しかしそうでなくても、振り向かないままでいるのは、かなり難しいことなのかもしれない。
例えば私が、もしこの状況に居合せていたならば、はたしてどうだったろうか・・・

この「塩の柱」の話は、「決別しなければならないときは、決して後ろを振り向いてはいけない」という戒めのように感じる。

もちろん「何から、何に対して、決別するのか」にもよる。

この週末に、本当に永い間、見ることができなかった、録画していたNHKドラマ「ロンググッドバイ」を、今頃になって見たのだが、(もう1年前に放映があったドラマになってしまった!)この決別についての塩の柱の話を、テレビの録画を見ながら思い出してしまった。

「ロンググッドバイ」は、かなり力作だった。

印象に残って書き留めているリタニアがある。

「償いの連祷」という連祷で、公教会祈祷文には載っていない。

某信心会のベネディクションで教えていただいた祈りである。

【先唱】                  【答唱】
御聖体へのすべての涜聖の罪ゆえに      主よ我らを赦し給え
大罪をもってなされる聖体拝領ゆえに     主よ我らを赦し給え

御聖体への不敬ゆえに            主よ我らを赦し給え          
教会内における非礼な態度ゆえに      
 主よ我らを赦し給え
聖櫃への侮辱と軽蔑ゆえに         
 主よ我らを赦し給え
聖なる事柄への軽蔑ゆえに         
 主よ我らを赦し給え
教会の遺棄ゆえに             
 主よ我らを赦し給え
不道徳の罪ゆえに             
 主よ我らを赦し給え
神を信じない霊魂ゆえに         
  主よ我らを赦し給え
あなたの聖なる御名に対する軽蔑ゆえに   
 主よ我らを赦し給え
あなたの愛に対する無関心ゆえに       
主よ我らを赦し給え
教皇に対する不敬ゆえに          
 主よ我らを赦し給え
司教、司祭方に対する不敬ゆえに      
 主よ我らを赦し給え
聖マリアの御名に対する侮辱ゆえに     
 主よ我らを赦し給え
聖マリアの汚れなき御宿りに対する軽蔑ゆえに 
主よ我らを赦し給え
聖マリアの崇敬の放棄ゆえに         
主よ我らを赦し給え
聖マリアの御絵、御像などに対する軽蔑ゆえに 
主よ我らを赦し給え
ロザリオの祈りの放棄ゆえに         
主よ我らを赦し給え
聖マリアの母性的愛に対する無関心ゆえに   主よ我らを赦し給え

胸に手を当てれば思い当たる節があって、皆で共に唱えるときに、心臓の鼓動が激しくなってしまうような濃密さがある。

それほど古典的な祈りではないと思うが、文章として、フニャフニャせずシャキッとしていてテンポがとても良い。
やはり答唱の「主よ、我らを赦し給え」が文語で、祈りを引き締めていることもあるかもしれない。

私の小教区では連祷があるのは、せいぜい洗礼式のときの「諸聖人の連願」(それも口語)ぐらいで、こういうシャキッとした濃密な連祷を、皆で一緒に唱えるなど考えられない。


コメンテーターの抵抗キリシタンさんの小教区の転出があり、このところ私なりの「教会の選びかたのポイント」のようなことを、いろいろ考えていたのだが「中規模の教会を避け、小さいか大きいかどちらかの教会を選ぶ。」という事があるのではないかと思った。

仮に、上記の「償いの連祷」を、小教区で呼びかけてみるとする。

小さい教会は規模のサイズ的に話合いに適するし、逆に大教会ならば、その大きな共同体のなかでの同好の士で集える可能性があるが、中規模教会は、話し合うにも中途半端なのである。

コミュニケーションによる意思統一が図れるのは、せいぜい10人ぐらいの少人数であろう。

拙ブログをお読みいただいている方は、カトリック信者の方が中心だとは思うが、もしかしたら、教会の門をくぐってみようかどうしようかと思っている求道中の方もおられるかもしれない。

私なりの「教会の選びかた」のポイントだが、ご参考になれば幸いである。 

「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が、世界遺産候補としてユネスコに推薦されている。

この世界遺産候補の長崎の教会群については、次行の長崎県のサイトが詳しい。
https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/outline/02.html
訪問マナーなどについても、とてもわかりやすく解説されていて良いサイトだと思う。

私は関西に住んでいるので、世界遺産に認定された後の京都・奈良の環境変化が、実感としてよくわかるところがあって、今後もしかしたら、長崎の古い伝統的な教会建築も(社会的な興味関心の対象として)少し脚光をあびるかもしれないと思った。

少なくとも外国人ツーリストは確実に増える。

カトリックとしてうれしい反面、個人的には「うるさくなったらイヤだな」という本音もあって、少し複雑な心境・・・・・

今でも大浦天主堂などは、観光客向けの拝観時間の間は、お祈りができるような雰囲気とは言い難いのである。

大切なのは、建築としての価値だけではなく歴史を知ることであって、上記の長崎県のサイトは、その点でも良い説明がなされていた。

今後、観光客の訪問者が増えることを想定した対応を、教会としていまから考えておく必要があるのだろう。


ところで、この世界遺産の候補となった教会だが、充分に納得が行く教会が選定されていると思った反面、「えっあの教会が選外か!」という感もあった。
対象を絞らなければならなかったのだろうか?

天草の崎津だけは選定されているが、長崎県外が極端に少ない
長崎の近隣県でも、古い風格のある凄い教会があるのである。

私は、偏屈(笑)なので選定外教会にも注目をし続けていきたい。


ということで、長崎近隣県の大都市のど真ん中に立地する、ある教会の画像をアップしたい。

祭壇のしつらえが、トリエント・ミサに完璧に適している。

こういう教会で、トリエント・ミサがあったら、一生に一度経験できるかどうかというぐらいのとても印象に残るミサになるだろう。

空想してしまう・・・・・

201505手取教会内部



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