カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2015年04月

三位一体をテーマに画像をGoogle検索していたら、いままで見たことがなかった魅力的な絵と出会えた。

ルーブル美術館 の「三位一体修道会創設のミサ」という絵。

三位一体修道会創設のミサ

17世紀
のファン・カレーニョ・デ・ミランダという人が描いたもの。

バロック様式のスペイン絵画の傑作らしい。

正直なところ、バロック様式というのはゴテゴテとした装飾過剰な建築のイメージがあってあまり好きではなかった。

この絵もバロック特有の「うねり感」が、「ラッパを吹き鳴らす天使」の部分で目立っている。

しかし表現が巧みだからだろうか?

「躍動感」「力強さ」の表現として、初めて好意的に受け止められたような感じがした。

一方、下部の聖人(マタの聖ヨハネ)のミサの場面では、トリエント・ミサの聖変化の一瞬の緊張感を、構図と登場人物の視線で、みごとに描いている。

「ストップモーションみたいな」と表現すると少し俗っぽいだろうか・・・


上部の「動」と下部の「静」の対比が、この絵の特徴だろう。

宗教画としては「聖霊のシンボルとしての鳩を加えた三位一体の表現の仕方」などで、カトリックらしさの韻を踏んでいる。

ルーブル美術館で、是非、現物を見てみたい。

御聖体の神秘を「軽々しく扱い、その聖性と普遍性をないがしろにしてよいと思うなら、それはあまりにも大それたことだといわれなければなりません」それどころか、たとえ司祭であっても、自分の好みでこの神秘を自由に支配するような行動に出るものは、しっかりと保たれなければならないローマ式典礼がもつ一貫性を損ない、今日、人々が体験している生きた神への熱い渇望とはまったく矛盾したその行為に責任を負うことになるのです。
こうした行いは真正の司牧職でもなければ、正しい典礼の刷新でもありません。
それどころか、今にいたるまで伝えられてきた霊的遺産を信徒から奪うことです。
好き勝手な行動は真の刷新ではなく、教会の伝統と規定に従う教会のいのちの表現である典礼儀式に与る信徒の権利を損なうものです。
そこに表される本質と、神のいのちとの交わりと神の民の一致を驚くほど引き起こす真の御聖体祭儀に、ついにはそうしたこうどうは歪められた状態と不調和な要素を招き入れるのです。
その結果教義のあらゆる事柄に対して、あいまいさ、神の民としての困惑とつまづき、そしてほとんど必然的な結果として強い反対を招きます。
こうしたことすべてが、それでなくとも「世俗化」の侵入のためにキリスト者の生き方がしばしば著しく困難になってきている わたしたちのこの時代に、多くの信徒をひどく混乱させ、悲しみに沈ませるのです

上記は、2004年にヴァチカンから出された指針「あがないの秘跡」の一部
の引用。

いろいろな野放図な改革による 「『刷新』という名の聖性の破壊」があることが 、指針「あがないの秘跡」によって 公式に認識され 警告が発せられたことの意味は非常に大きい。

私は、この指針にとても共感している

この指針の発令により、世界中のカトリック教会にとって 2004年という年は、一つの大きな時代の転換点になったのではないか?

2007年に発布された、ラテン語特別形式ミサの有効性を定めた 自発教令スンモール・ポンティフィクム」  この ヴァチカンの 同じ想いの流れのなかにあり 「あがないの秘跡」から連続性があるような感じがする。

しかし現代の日本のカトリック教会内では「第二バチカン公会議の精神」という言葉で、いろいろと説明される事柄はとても多いが 、この指針「あがないの秘跡」に基づき、何かが語られるということはまだまだ少ない。

日本では「聖性の破壊」に対し、問題認識に乏しいのかもしれない。

例えば、大阪教区の典礼委員会のホームページは、私には疑問に感じる内容が満載。

京都教区のほうは
「あがないの秘跡」にもとづいた 適切な 文書が2012年にでたこともあったが、小教区では実態が文書に伴っていない(従っていない)現実がある。
「聖体授与の臨時の奉仕者」の主日ミサでの常習化のことである。

ラテン語ミサについては「日本では無理」という一言で片付けられてしまう


ヴァチカンからみれば、辺境にある日本のカトリック教会だが、2004年
からは、もう10年以上過ぎている。

ヴァチカンと世界のカトリック教会が、どんどん変わっていくなか、日本では「一時代前の目的化した刷新」にこだわり、逆にフリーズしてしまっているように、私は感じてしまうのだが・・・





いざいざ喜べ。我が救い主は、死の苦しみに勝ち、御墓を開きて甦りたり。
この世に降りて、罪人のため、犠牲(いけにえ)となりて、苦しみ給いき。



この文を読んでメロディーが思い浮かぶ方は、オールドカトリック。

カトリック聖歌203番「いざよろこべ」の歌詞である。

私の子供の頃、復活祭主日ミサの閉祭の時に必ず唄う聖歌だった。

「だった」と過去形なのは、今の私の所属小教区教会のように、カトリック聖歌を完全に廃してしまって典礼聖歌しか歌わない教会があるからである。

今日、復活節第2主日(神のいつくしみの主日)に、たまたま偶然に所属小教区ではない別の教会のミサに与ったのだが、この「いざよろこべ」を、もう本当に何年かぶり、もう思い出せないぐらいに久しぶりに唄った。

驚いたことに、歌詞をまだ覚えていた・・・

もう涙目・・・


第二バチカン公会議後50年の歴史なかで、日本のカトリック教会では「典礼聖歌」が登場し、フォーク調の聖歌による「子供のためのミサ」も生まれるなどで、典礼が「刷新」されてきた。

「古い聖歌に拘り、新しい聖歌の良さを受け止めようとしないのは良くない」とか「ミサそのものは変わらないのだから小さな違いにこだわるのはおかしい」ということを、私は言われ続けてきた。

しかし、体にしみついたカトリック聖歌が、教会から失われていく寂しさは耐え難く、その気持ちは残り続けていたのである。

私にはやはりカトリック聖歌が必要ということがあらためてわかった。

主の御復活に合わせるかのように、今日、カトリック聖歌203番「いざよろこべ」の復活の御恵みをいただいた。

それぞれの小教区にはそれぞれの歴史があり、それに伴う「文化」にも違いがある。
新しい聖歌を受け入れながらも、古いカトリック聖歌を大切に守る小教区もある。

私は、主日に与るミサで、今の所属の小教区にこだわるのはもう止めにした。

心が満たされるミサを求めて、これからは小教区を越えて行く。

本日は復活祭。主イエズス・キリストの御復活の喜びをお祝い申し上げます。

今回の内容、タイミング的になんだか復活祭には合わないような感じになってしまいましたが、私の興味関心の流れということでどうかご容赦くださいませ・・・・・

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

国立西洋美術館の「聖アントニウスの誘惑」について調べた時に、ヴァニタスという言葉があって、少し興味をもった。

 Wikipedia によると「ヴァニタス」について、次のように書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%B9

ヴァニタス(ラテン語: vanitas)とは寓意的な静物画のジャンルのひとつ。16世紀から17世紀にかけてのフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれたが、以後現代に至るまでの西洋の美術にも大きな影響を与えている。ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画であり、豊かさなどを意味する様々な静物の中に、人間の死すべき定めの隠喩である頭蓋骨や、あるいは時計やパイプや腐ってゆく果物などを置き、観る者に対して虚栄のはかなさを喚起する意図をもっていた。

ヴァニタスは、「カルペ・ディエム」や「メメント・モリ」と並ぶ、バロック期の精神を表す概念でもある。

【語源】
ヴァニタスとはラテン語で「空虚「むなしさ」を意味する言葉であり、地上の人生の無意味さや、虚栄のはかなさなどと深く結びついた概念である。ヴァニタスを語る際、旧約聖書の『コヘレトの言葉』(『伝道の書』)1章2節の有名な言葉「ヴァニタス・ヴァニタートゥム」(「空の空」、「虚無の虚無」)がよく引用される。ヴルガータ(標準ラテン語訳聖書)では該当部分は次のようになっている。

Vanitas vanitatum omnia vanitas.
コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。



「聖アントニウスの誘惑」以外にも、西美の常設展示には、髑髏を大きく描いた、よりわかりやすい静物画のヴァニタスもある。
http://collection.nmwa.go.jp/P.1998-0003.html

絵を観るときに、美しさを愛でる気持ちがないわけではないが、ヴァニタスのようなキーワードを知ると「作者が何を想ってこの絵を描いたのかという謎解き」になり興味深い。

こういう絵をパソコンの画面に映しながら、旧約聖書の「コヘレットの書」を読んでみる。
なんだかだんだん気が滅入ってくるような・・・

しかし人生の儚さを思い、自分の事を見つめ直す動機が与えられる。

バルバロ訳聖書「コヘレットの書」の解説では、バルバロ師は次のように書いている。

この本は連絡のない格言の本のようで、その格言は主としてこの世の空しさを語っている。
一般的にこの本の教えるところは、エピクリイズムにもなりうる希望のない悲観論ではない。
コヘレットはこの世の空しさ、はかなさを知らせることによって、幻滅におちいらず、いく分か人生の楽しみを味わえと教える。
また、神への感謝をもって、適度にこの世の楽しみを味わえと教えるのは、人間がこの世に生きることの目的が快楽にあるというのではない。むしろコヘレットの教えるのは節度である。

バルバロ訳聖書の評判が高い理由がわかるような気がする。

↑このページのトップヘ