カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2015年03月

私の部屋の壁掛け十字架だが、これがどうもパッとしない。

先づ、御像(キリスト像)がついていない。これはもう致命的にダメ。

そのうえ、少しデザインが変わっていてどこか安っぽい。
材質が陶器というのも、何か違う感じがする。

そういうわけで、今ひとつ馴染めないのだが、何でそういう十字架が在るのかといえば、この十字架は貰い物なのである。  

戴き物にケチをつけるのはバチ当たりだが、こういうものは捨てられないから、馴染めないというのはあまり芳しくない


しかし、今は壁に在るだけまだ良い。

本当のことを言えば、十字架すら壁に掛けなかった時期が、実はかなり永かったのである。
私の場合は幼児洗礼は受けていても、やはりかなり永い間、信仰が無自覚だった。
成人洗礼の方から見れば、ちょっと想像しにくいかもしれない。

それでもこのブログを書き始めたころからは意識が変わり始めて、この貰い物の「間に合わせの十字架」を壁に掛けてきたが、一度 「間に合わせて」しまうと、馴染めないと思いながらも、そのままズルズル続いてきてしまったのである。

「間に合わせの十字架」による「間に合わせの信仰」。
「在るだけマシ」といったところか・・・

しかし、これから先の人生をこの「間に合わせの十字架」ですまそうとする自分がイヤになった。

自分自身で選ぶ、ホンモノの質のいい十字架が欲しくなったのである。
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自ら聖書を読むことができなかった中世のキリスト教信徒は、聖堂のステンドグラスの絵を見て、聖書の話を学んだという。

宗教画というものは、現代に生きる私たちでも興味を引き立てられるし、一瞬の視覚体験で「キリスト教世界に触れて入り込む」ような刺激を受ける。

やはり絵はわかりやすい。

美術館の第一級の絵画であればなおさら。

有名な画家の特別展ではなくても、東京上野の国立西洋美術館には、常設展示(パーマネントコレクション)でも素晴らしい作品が多くある。

常設展示は特別展のように混まずに、人が少ないのでゆったりとマイペースで観れるのがいい。
興味を持った絵のみをジックリ見てあとはさらっと流してさっさと帰っても、また来ればいいので余裕を持てるのである。
常設展示は、多くの絵を集中して観ることができないような私のような人に向いているかもしれない。

西美の常設展作品については、拙ブログでも以前に、ロダンの「地獄の門」カルロ・ベルチの「哀しみの聖母」について書いたことがあつた。
http://catholicus.blog.jp/archives/2718072.html
http://catholicus.blog.jp/archives/2723200.html

この時は
予備知識なしで見に行ったのだが、 本を読んでから映画を観るように、物語や背景を知ってからどのように描写されているのか観に行く、行きたくなるというのもそれはそれで良いような気がしてきた。
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なにげなく電車の車内ポスターを見ていたら、そのポスターのなかに「十字架の道行き」という文字があって、少し意外な印象を受けた。

電車という超日常的な空間の中に、教会用語が紛れ込んでくるのは珍しい。

「十字架の道行き」というのは、14枚の絵で表現された「キリスト受難の道行き」を、順番に一枚づつ見ながら祈りを唱えていく信心業である。

カトリック教会の聖堂では、この「十字架の道行き」の絵が、だいたい聖堂の横のほうに順番に掛けてある。

上記の車内ポスターの「十字架の道行き」の文字は、今、滋賀のMIHO MUSEUMで「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展というアートの展示会が行われているようでその案内だった。

http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/43091/
http://www.miho.or.jp/japanese/index.htm 

ホームページでもこの「十字架の道行き」展の作品がチラッと観れるが、超先端的なモダンアートのようで、残念ながら私にはどういう風に見たらいいのかさっぱりわからなかった。

例えば、第五留の絵(キレネ人シモンがイエズスの十字架を強いて背負わされる場面)を観ても「キレネのシモンをどのような表現で表してるのか」というようなメッセージの読み解き方が全くわからないのである。

「この絵は線が滲んでないなあ・・・」ということしかわからない・・・


しかしこの「十字架の道行き」展のおかげで、またキレネのシモンに関心が向いた。

例によって、また google の検索で教えてもらう。

キレネというのはアフリカのどこかの地名だということは漠然とは知っていた。

「田舎からでてきた」(ルカ23章)という書き方をされてるから、キレネ地方とか地域だと思っていたが、どうやら違っていて古代都市のようだ。
現在リビア領内にあって世界遺産に登録されている古代ギリシャのキュレネ遺跡がキレネらしい。

キレネが地中海沿岸の都市だったのなら「本当にシモンは黒人だったのかな?」と一瞬思ったが、聖書には「ニゲル(ニゲルは黒を指すラテン語)のシメオン」(使徒行録13章 新共同訳)という記述もあるようだから、やはり黒人なのだろう。

google 検索で見つけた日本キリスト教団牧師の国府田先生の説教が詳しい。
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christ_srm135.htm

「たまたま偶然に、十字架を負うキリストの場面に遭遇した一人の見物人にすぎなかかったシモンは、傍観者から無理やり当事者となったことで『この人は何者で、なぜ十字架にかけられなければならないのか?』と 『自分の問題』として考えなければならなくなった。」


というところが印象に残る。

四旬節という時期にあって、良い説教と出合えた。

こういう説教を直接聞ける、日本キリスト教団荒川教会の人が少し羨ましい。

キレネのシモンが、後に初代教会の一員となるまでの道のりは、どのようなものであったのか?

その道のりのことをいろいろ想像してしまう。

少しタイミングを逸してしまっているが、2月初旬まで公開されていた、映画「サン・オブ・ゴッド」について話題にしたい。

ちょうどタイミング良く四旬節の前だったので、クリスチャンで観た方も多いと思う。

イエズス・キリストの生涯を描いた映画は多数あるが、「ナザレのイエス」はルカ福音書、「奇跡の丘」はマタイ福音書に基づいているらしい。

「サン・オブ・ゴッド」はヨハネ福音書をベースにしている。

キリストの受難の場面は「パッション」を思わせるような激しさがある。

実は私はイエズス・キリストを主人公にした映画をいままであまり観てこなかった。

「パッション」と「偉大な生涯の物語」は観たが、それ以上観ようとしなかったのは、主イエズスの姿やイメージが、映画によって刷り込まれて固まってしまうのが嫌だったのである。

しかし、今までのそういう認識は少し間違っていたのかもしれない。

イメージを固定化させないためには、むしろ逆に、もっと積極的に様々な「イエズスの生涯」の映画を観て、様々な描かれ方を知ったほうがいいということに今回気がついた。

例えば「偉大な生涯の物語」でのイエズスは、神秘的な姿を強調して描かれていたようにも思うが、今回の「サン・オブ・ゴッド」では優しさがにじみ出てくるような姿であって、そこがとても新鮮だった。

事前に読んだ映画批評では、「革命家としてのイエスの姿が強調されている」という記事もあったのだが、必ずしもそうではなかった。

イメージが固まるのではなくむしろ拡がって、想像する余地が生まれたような気がする。


(以下、ネタバレあり。ご注意 )


イエズス受難の場面は、大変心が動く。
動揺すると言ってもいい。

しかしそれ以外にも感動する場面は多い。


「マタイの召命」の場面が、かなり印象に残った。

以下のようなシーンである。


道端で質問を受けたイエズスが「ファリサイ人と徴税人の祈りのたとえ話」(ルカ福音書18章)を話している。

そのイエズスの話を、マタイが徴税作業しながらさりげなく聞いている。

聞いているうちに話に惹きこまれていき、マタイの目からは、みるみると涙が溢れ始める。

イエズスを見つめながら、マタイの唇がわずかに動き、小さな小さな声で

「主よ私を憐れんでください」
と呟く。

もちろんイエズスは、マタイの小さな声を聞き逃さなかった。


「ファリサイ人と徴税人の祈りのたとえ話」(ルカ福音書18章)と「マタイの召命」(マテオ福音書9章)の話を一つに合体させた、とてもドラマティックな描かれ方になった。

「マタイの召命」はカラバッジョの絵のイメージで固まっていたが、新しい別のイメージが加わり拡がった。


この場面には大変感動してしまい、私はもう胸がつまって・・・・・


DVDが発売されたら、購入してもう一度観たい。

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