カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2015年01月

後藤さんの拘束はまだ続いたまま。

テレビを見ていたら次のような意見を述べる人がいた。

「自分の責任で行動すると言っても、自分では責任とれない状況になってしまっているではないか。危険地域に足を踏み入れることでどれだけ国に迷惑をかけるか・・・」

筋の通った意見で正論なのかもしれない。

しかし同意したくないような何か引っかかるものを感じた。

今回、私が後藤さんの安否がどうしても気になるのは、後藤さんは単なる被害者というだけではなく、湯川さんの救出のための身を賭しての行動だったらしいと言われていることが大きい。

一億人以上いる日本人のなかで、たった一人、湯川さんを助けるために動いた後藤さんに対し、私たちは傍観しているだけなのである。

私の場合、なんとなく感じるうしろめたさが、無事を祈る気持ちを増幅させているのかもしれない。

後藤さんの行動を、危険地域に足を踏み入れたからといって「国に迷惑をかけている」という迷惑論で貶めるのは、あまりにも心が固く冷たいのではないか。


日本の社会は、共同体秩序を大切にするがゆえに「迷惑をかけない」ということに重きを置くところがある。そのことは良いことだが、反面「いたわり、慈しみ、人情」といった感覚は薄れているような気がする。
我が身の安全や利益を最優先する自己保身は誰でもあるから「迷惑をかけない」けれども「人のためにリスクはとらない」という価値観に世の中が次第になってきているのだろう。

後藤さんは(ご本人は過去のいろいろな経験から失敗するとは思ってなかったと思うが・・・)結果的に「迷惑をかけない」ということよりも「友のためにリスクをとる」道を選んだことになった。

私は、後藤さんは素晴らしい人だと思う。

中山副大臣が「救出まで絶対に諦めない」というコメントを出されたがその言葉を信じたい。

後藤さんを助けてほしい。

詩篇 第54篇

神よ、御名によって私を救い、御力をもって、私の訴えを守りたまえ。
神よ、私の祈りを聞き、私の口の言葉に、御耳を傾けたまえ。
神の前にいない、傲る者が私に向かって立ち、凶暴な者が私を命を狙っている。
だが、神は私の助け、主は魂の支え手である。

(以下略)

イスラム国に拉致された後藤さんは、いつも小さな聖書を持参し、詩篇の第54篇を心の支えにしているという。

現地の事情にも詳しく軽率な判断をするとは思いにくい後藤さんが、拘束される直前にとった行動は、帰国する航空便までの旅程がかなり短かかったことから、湯川さんの救出(というより何らかの交渉の結果による身柄の受け取り)の可能性があったのではないか?という話がある。

何度か接点のあった湯川さんを「見捨てることができない。助け出したい。」という想いが大変強かったのではないか。


そんな後藤さんに対しても、一般市民はともかく、自民党関係者からも自己責任論がでているらしい。

しかし私は、この政権政党の側からの自己責任論には強い違和感がある。

イスラム国は、現実にいままで人質を殺傷してきおり、交渉の余地無しと判断すれば、最悪の事態を招きかねない。

政府は、常日頃から『国民の生命財産を守る』と主張している。
今こそ『国民の生命を守る』ときではないのか?

同じ日本人の同胞であり、義をもって人の命を守るために行動した人を見捨てるような国であってよいのだろうか。
北朝鮮拉致被害にも言えることだが「決して見捨てない。必ず助ける。」という強いメッセージの発信を政府関係者全員、すべての国会議員に望みたい。

テロリストの条件を丸呑みするような発言も軽率だが、人命最優先の姿勢に立つならば、交渉を続ける姿勢を貫いて欲しい。


とにかく後藤さん湯川さんの無事を願い、祈りたい。


山上の垂訓 真福八端 が頭に浮かぶ。

正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼らのものである。
(マテオ福音書5-10 真福八端)

霊魂においては、キリストは義人を見捨てない。

【ネタバレ注意】
以下の文章は、上映中の映画「神は死んだのか?」のストーリーに少しふれます。映画を観るまでストーリーを知りたくない場合はご注意ください。

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「神は死んだのか?」(原題 GOD`S NOT DEAD )というアメリカ映画を観た。


原題は、GOD`S NOT DEAD で「神は死んでいない」という題名なのに、「のか?」という疑問文の表現になっている。
現代の日本人社会の曖昧な宗教観が、配給会社に於ける映画名決定のプロセスでも現われているのだろうか?

しかしこの映画は、やはり「神は死んでいない」という題名の方が内容と合っていると思う。

というのは、この映画は、神の存在についての議論にポイントがあるのではなく、どちらといえば神に向かう心の動きを描くヒューマンドラマであり、且つかなり護教的な内容だからである。

「のか?」という題名から感じるようなスリリングな討論を期待してこの映画を観た人は、かなり違和感を感じたのではないだろうか?


全体を通して、人と人とが異なる意見をぶつけ合う場面がとても多い。

特殊ではなく一般的なアメリカの市民社会を舞台にしているように思うので、日本人的な民族性とは異なるアメリカ人気質のようなものを感じる。
アメリカ人的な「白か黒か決着をつけたい」という戦う姿勢の強さだろうか? 

登場人物たちはカトリックではなくプロテスタントのようだったが、信じなければ救われないと迫ってくる姿勢や強さにたじろかされる。 

しかしそういう姿勢を持つだけに、日常的に聖書をよく読み、生活の中で活かしている感じがした。
そして聖句の引用も巧みである。

サブプロットのストーリーで、ビジネスにおいて成功をおさめた息子(ただし生き方は傲慢の極みで全く福音的ではない)が、厚い信仰を持ちながら認知症で自分の息子も解らなくなった老いた母親に向かって「このザマはなんだ」という酷い悪態を吐くシーンがある。
もはや母親は息子の悪態を理解できない。
しかしここで、なんと母親が、突然、聖句を呟く。
その聖句が、「門が閉ざされる」というような、神に背を向ける息子に対してピタっと合っていてたしなめる(というより突き離す)ような厳しい聖句なのである。
聖句を呟いた後、母親は、すぐにいつもの認知症の状態に戻るのだが、母親の聖句の呟きは、一瞬だけ我に返った母親自身の言葉なのか、それとももしかして・・・・・
と思わせる緊張感のあるシーンだった。
大変ミステリアスで、この映画の印象を強める名場面になっている。

題材の選び方は新鮮で、オムニバス形式で同時並行させるストーリー展開も凝っている。
人物描写は、ややステレオタイプ的ではあるが、話を解りやすくさせている。

様々な登場人物達が少しづつ神の存在に気づき始め、発見と共に歩み始める。
満たされない想いを満たしたいという想いから・・・
あるいは小さな灯火が少しづつ大きくなっている自分への気づきから・・・
あるいは哀しみ苦しみへのもがきから・・・

オムニバス形式ならではの上手い演出で、そこは素直に感動した。 

最後の何千人もが集まるロックコンサートのようなイベントのシーンは、プロテスタントメガチャーチの伝道集会の光景かも知れないが、私には未知の光景だったのでちょっと新鮮。
しかし、この場面では共感はしない。
連帯の強要のような感じがイヤだし、ああいうものが、現代のカトリック教会の変な(例えばバンドミサみたいな)ミサに影響しているかもと思ってしまうと、やはりチョット・・・という感じだ。

ラストが伝道集会でまとめてしまったので、やはりキリスト教のプロパガンダ映画に、結局なってしまっているのかもしれない。
ノンクリスチャンの方であれば、拒否感を感じる人もいるだろう。 

場面場面で緊張したり感動したり白けたりで忙しい。

この映画は、感動した共感したとも言えるし、とても違和感があったとも言える(???) 

名作映画とは言いがたいが、印象には残る怪作?である。

まだ上映中だが12月から封切しているのでそろそろ終了するかもしれない。
ご興味を持たれた方には、ぜひご覧になられることをお勧めします。

年末年始のテレビ番組で、偶然に、NHKの連続テレビドラマ「マッサン」の総集編を観たのだが、いいドラマだと思った。

総集編のため、ストーリーの流れがぎこちないし、ディティールでよくわからなかったところもあったのだが、 それでも胸が熱くなるところが度々・・・

まだストーリーは完結しておらず進行中なので、1月5日から継続して放映している回は、毎日録画して観るようになった。

異文化との出会いと受容、夫婦愛がテーマで、ニッカウィスキーの創業者をモデルにした実話がベース。

あらすじは以下のような話。

スコットランドで、本場のウィスキーづくりを学んだマッサンは、同じウィスキーを日本で作って広めようと奮闘する。
しかし作ろうとしてもなかなか理解してもらえず協力が得られない。
ようやく理解者が現れ、作るところまでは漕ぎ着けても、今度は売れない。

逆境は続くが、マッサンはくじけない。

そして強い味方がいる。同じ夢を共有してくれる愛するスコットランド人の奥さんのエリーさんである。

という感じ・・・

NHKの朝の連続テレビ小説は、何年か前に「カーネーション」という洋装の黎明期のドラマがあって、この時も洋服(西洋文化)への憧れと日本への定着が話のベースになっていた。
「ホンマもんを着なあかん」「人は着るもんで変わるんや!」というセリフがいまでも印象に残っている。

今回のドラマ「マッサン」の舞台も、ウィスキーという酒が、まだあまり知られていない時代の話。

マッサンは「わしゃ、ホンマもんのウィスキーを日本で作りたいんじゃき!」とホンマもんの味にこだわる。


ウィスキーづくりも「日本人の好みに合わせた味にする」という考え方に振れると、それはもうウィスキーという酒ではなくなってしまうのかもしれないのである。

マッサンが小樽での行商で奮闘する今週の回でも、マッサンのウィスキーは、ひと口飲ませただけで「不味い。焦げ臭い!」と、突っ返される。

エリーさんや仲間に支えられて、マッサンがついに日本で作った情熱のウィスキー。
決して出来が悪いわけではないのに・・・

しかし当時の北海道は、ニシン漁が隆盛を極めている時。
網元の熊さんが、「不味い」と言いながらもマッサンのウィスキーをケースごと全部買ったのはニシン漁で稼ぐ勢いゆえだが、やはりマッサンの熱意に対する共感がある。

熊さんが「焦げ臭い」と感じたウィスキーも、チビチビ呑まれていくうちに、日本人の味覚臭覚でもかぐわしい香りに感じられる日が来るのかもしれない。

鎖国開国があるように、日本の歴史は異文化(特に西洋)に対し受容と拒絶を繰り返すが、やはり拒絶する心を溶かすときには、マッサンのような個人の熱い想いがある。

そしてその熱情への共感で人々の
心が動き始め、そこにドラマがあり感動がある。

ホンマもんの味にこだわるマッサンをこれからも応援したい。

頑張れ!マッサン!

新年、あけましておめでとうございます。

今年は未年ですが、羊という動物は干支にありながらも、いま一つ日本人には
身近な動物の感じがしませんが、カトリックにとってはとても大切なシンボル。

一年の初めに、ミサの祈りの中から「Agnus Dei」を引用したいと思います。


Agnus Dei  quitollis peccata mundi miserere nobis

Agnus Dei  quitollis peccata mundi miserere nobis

Agnus Dei  quitollis peccata mundi dona nobis pacem


神の小羊 世の罪を除きたもう主よ 我らを憐れみたまえ

神の小羊 世の罪を除きたもう主よ 我らを憐れみたまえ

神の小羊 世の罪を除きたもう主よ 我らに平安を与えたまえ



そして、司祭は、信徒の聖体拝領の前に聖体を捧持しながら


Ecce Agnus Dei,ecce quitollit peccata mundi

世の罪を除き給う神の小羊を見よ


と唱え、信徒はその後直後に次の祈りで応える。


DOMINE,non sum dignus,ut intres sub tectum meum
:sed tantum dic verbo,et sanabitur anima mea.

主よ、私は主をわが家にむかえ奉るだに足らぬものである。
ただ一言を語り給え。そうすれば私の霊魂はいやされるであろう



今年もよろしくお願いいたします。






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